もはや「学歴(正確には『学校歴』)ラベルで社会階級のし上がり」は通用しない世界に入っているのではないか#今更論

当サイトでは設立時…いや設立以前(旧ブログ時代)から「日本の社会構造においては『大学入試で勝てば一挙にのし上がれる』ので,大学受験で勝つための勉強の方法技術を伝えていく」という事を,一つのコンセプトに近い形で置いていたのですが,直近の社会情勢から今後将来への展望まで含めて,今ここの段階であらためて見返して考えてみたときに,「それって果たしてどこまで(いつまで)有効なのか」との疑念が否めなくなってきているかな…と思いまして,ちょっと考えを整理しつつメモを記事規模にまで展開していきたい次第です.

正直,こと現代社会の構造において「学閥ラベル」って果たしてどれほど有用よ?と考えてみたときに,せいぜい「個々人それぞれなりに日々を頑張って生きている中で,たまにオンライン呑み会とかで繋がって精神の平安を保つ」などといった,従前のネットワーク理論(10年位前に流行った)で結論されている通りの「SNSは元から(オフラインで)在る人的関係を強化する作用が実は最も大きい効果」という話に降りてきて着地するくらいの感しか見当たらないのでは?と.

直近も,数十年単位で会っていない程度の旧知人らを敢えてSNSで検索して「発掘」して,此方が名前変わったりしてるので「本人認証としての学校閥なりの合言葉」でプライベートメッセージをやり取りしてから繋がる,などという事を,この私(重度アスペルガー障害の診断を受けている≒「孤独が苦にならないの典型」であるはずのところの)がやっている有様でございまして,「あぁ人間は結局『設計仕様』の範疇で動作する機械なのだな」などと「今更な確認」を主観レベルで行ったりしていました.

 

この一体験から敷衍して,当職にまで「延長伸展」して考えてみたときに,「学歴ラベルって何なんだったっけ」程度の事さえ思う訳です.今まで数十年来,私は「仕事」と銘打って一体何をやっていたのか,という.

元々は,自身が社会的マイノリティ出身である事から出発して,「それでも(大学入試で)勝てば一発逆転が可能」という旗印を掲げて,「だから大学入試で戦って勝つ方法論を展開する」という話に至っていた訳ですが,今現在その「足元」が全くあやしくなっていると見えるに至って,「もはやこの仕事何なのよ?」と思えてきた次第です;無論,同業者たる塾なり予備校なりの喧伝ぶり等(直近では「臨海セミナー」が合格実績の水増しで挙げられましたね…)も「同列」です.

全く今更な話ですが,所詮社会的役割(端的に「仕事」)に関しては,そもそも「使える人は使える」に過ぎなくて,尚且つ足元の「社会」の構造が変われば(典型例は今現在の「密回避」)当該「使える」の何たるかも当然に変容する,という,それだけの事だった訳です.

師匠・苫米地英人博士の論を率直に受けて,「職業」と「ファイナンス」を分けて考えたとき,私は「職業」として現任の「教育」分野(少なからず特殊化してはいますが)を選び,長年(既に人生の過半)にわたって,社会への提供を続けてきた(少なくとも当事者としてはそう思っている)訳です.
ところが,その前提が「そもそも何だったんだっけ」になってしまった.これはエライ事です.「収入云々」は上述の「ファイナンス」の話なので,極論すればここでの話においてはどうでもよろしい.ただ「仕事」の役割が揺らいできたときに,決して少なくない数の,かつての教え子達の姿(その一部に関しては,オンライン経由で現在の活動状況も把握していたりします)が脳裏に映りゆきつつ,自分が「この世」で何をしてきたのか,について,反省を余儀なくされている現状がそこに在ります.

私の能力特性は,おそらく「新規概念の習得には並大抵の人の倍程度の労力投入を要するが,一旦『マスター』した分野に関しては,後進に『倍速』で修得出来る道を提供する事が可能になる」という点にあると認識しています.それって,率直に考えて「教育」そのものです.
私自身はこの事を,遅くとも幼稚園年長時代から認識していて,実際に「同級生に分数の概念を教えるにはどうすればよいか」を考えて実行し,成功した事を今でも憶えています.

「教育」そのものが決して不要になった訳ではありません.むしろ,人類の文明が日進月歩ならぬ秒進分歩で発展していく中で,現代人は常に教育を磨き続ける必要に迫られ続けているでしょう.
しかし,その形もがまた秒進分歩で変容しています.端的に当職の卑近例に引いて述べれば,さしずめ「『一里塚』が見えなくなった」とでも言えましょうか.

「一里塚」の存在があやしくなったという事は,「引き際」も見えなければ「利確」といった事もそのタイミングが見当たらなくなる訳です.
私より年上の教え子も居ますが,彼らとてその後の世界をつくっていく事には違いありません.その彼らに対しても,私は「一里塚」の存在が不明になった場合の「方法」の見つけ方さえも教えてこなかった.再び,私は一体何をやってきたのでしょうか.

「教育」はそれ自体が世界を進めている事にはならない.私はその事を,遅くとも中学生になる頃までには認識していたはずです.しかし他方で,「何がしかの『原動力』の一翼を担う事にはなっている」と信じて,敢えて此の道を選んできました.世界は一体,どうやって進んでいくのでしょうか.今ここへきて,私はとてつもなく迷っています.
斯様な反省の言などは,大学受験生あたりには触れさせない方が良いのかもしれません.ですが,今思っている事を率直に,敢えて此処に書きつけていきます.それが,私の「仕事」の一だと考える由です.

世界は一体,どうやって進んでいくのでしょうか.

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