で,「数学・物理の教育水準を普く向上させ保つ」算段をどう作るか

以前から当サイト各記事で「教育」の内容について度々言及してきている話題の続論展望です.

その中でも今回,こと問題として採り上げたいのは:
(既に記事で触れてきたような)高等学校程度以下の学習途上受益段階にある若年者の皆様はともかく,
「現に世の中で活動している(割合的にも)多くの人々に対して,いかに『知って・学んでもらう』方向性(インセンティヴ)を,仕組み設計施策を含めて提供するか」
という事です.

 

安直な物言いとしては,例えば「日本で言う『文系』とは『数学出来ません』の言い訳用語に他ならないのであるから,即刻廃止すべき」などとつい申しがちに思われますし,実際あるいは筆者も以前に大意同様の言を発していたかもしれませんが,
しかしここで今一度踏みとどまって考え直してみるに,返す刀いや諸刃の剣で,
既に文科系の経歴を辿ってきて表舞台の肩書きに載せている面々をdisって敵対するなどという事は,何ら本意でないし,また実益にも乏しい事は言うまでもありません.

 

実利・実現可能性の打算から考えるなら,展望の一路は「コーチング」の範疇に有り得るのではないか,と筆者は思っています.なぜならば,コーチングを受けたクライアントにおいては,結果として「今まで唯の一度も気に留めなかったような事が,気になる=興味関心の対象に続々と入り始める」という現象が,しばしば発生するからです.
別に必ずしも,コーチングの本来目的なり定義が「知識を増やす事」という訳ではありませんし,かく言う筆者自身もそんな意向をもってコーチングを受けたり更にはコーチになったりしてきた訳ではないのですが,当事者の主観感想として「結果的に知識も増えました」と言う事は,確信を持って正当に出来ます.

何より,筆者が数学(元々の専攻=実質的に高校生前半以来ずっと)について話すなり発信する姿は,どうやら傍目素人からも余程「楽しそう」と見えるようで,英文科出身の母が「数学って楽しそう.私も高校時代もっと本気で取り組んでおけばよかった」などと言い始めた位です.
…そんなので広く世間に数理科学への興味関心知識を提供展開していけるというのなら,筆者は喉と腕(板書)の限界まで解説発信を続ける事さえやぶさかではありませんよ??

 

とは言え,その筆者自身は最近,他の興味対象(音楽や演劇鑑賞)に向かってむしろ走り込んでいる有様だったりしております.尤もこれらに関してはいずれも「受け手」一方なので,他の人へ向けて話題を提供する際には,その内容はやはり数学・物理学周辺に寄っている可能性が高いのではないかと思われますけれども.

 

あるいは,「他の(世に在る多くの)人々にも数学・物理学へ興味関心をもって知識習得をしてもらう為には,先ず自ら人に興味を持とう」などとスローガンを掲げてみても,恐らくほんの数年前の[数学以外眼中に無かった]筆者には,まず通じなかった事でしょう.

今でも,特定分野の専門家が集う会合などに混じって参加していると,「あぁこの人達は本当にそれ以外見えてないのかな」と感じられる局面が珍しくない程度に有ったりしますが,他方では彼らが「それゆえに研ぎ澄まされて今の形を成している」構造も否定し難く思われて,一体何を以て良しとすべきか,未だまことに迷うばかりであります.

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多様な選択肢としての「やり込みゲーム」を残しておく事は必要だが,其の意義付けにも慎重を期すべき

医学検査の最中にふと独法化と財源の話題が挙がって微妙な立ち位置を確保しつつ受け応えるブリザムです.ストレステストか何かでしょうか(??).

ところで,少し前に拙Twitterでもメモだけ書いておいたのですが,こと日本の公教育システム(に対する社会的受容の実態)において,教育の「成果」はあまりにも低く評価されていると思う訳です:
https://twitter.com/kazmiblizzam/status/904748395448885248

【練ってない雑感メモ】何度考えてみても,日本の公教育は先ず「形式的に卒業・修了した事にしてしまう」のを即刻やめるべき(さもなくば地盤沈下崩落する)に違いない…と思うのですが,此の理念を実装完備するには「年齢差別」を全廃する前提が必須と見えて,なお難関の絶壁さ感を禁じ得ません.

ちなみに,此の問題意識の先にある展望は何かと言うと,その教育水準(知識・教育成果の到達程度段階,「知的水準」)を上げていく当事者の立場にとっての,あまりにも「報われない」「割に合わない」感の度合い,といったところです.

かく言う筆者は,「気になる」「納得いかない,だから調べる」に始まって,地図・図鑑通読→各種取扱説明書通読→辞書通読→複数自然言語辞書暗記[→…→]化学→薬学→医学生理学[→…→]物理学→数学→数論[→…→]可積分系[→…→]数学基礎論→論理代数系→計算複雑性,くらいまで辿ってきています.
この間,出来合いの教育プログラムに乗って演習カリキュラムで地獄を見るような思いをした局面も度々あった気もしますが(苦笑),基本的には「そこで得た知識・知見は,おおよそ『今に活きている』と言える」ものと認識しています.

とは言え,ではひとたび,「その内容が『割に合っている』ものか?」という形で問いを立ててみると,返答に窮さざるを得ない事の方が多い気もします.というか,「自分の疑問を解決出来た」事以外に使い途の分からない知識が殆どではないか,くらいの感さえあります(苦笑).

 

「AIに仕事を奪われない人材になるための教育(カリキュラム)とは」などという言説が最近もまことしやかに各方面で挙がっている模様ですが,そもそも「教育の実利」って何でしたっけ,という,ごく出発点近傍の論点から,今一度マトモに考えてみる必要があるのではないか,と案じます.

「今ここで頑張って勉強しておけば後でいい事あるよ」的な言い草は,古く科挙の時代から知られていたようですが(宮崎市定先生著参照),それってホントなのでしょうか,との注意を,少なくとも「その実利はホントですか」と「そういう釣り方はそもそもアリなのか」の各面から確認しておく事は,理詰めとして必須と思う次第です.

 

タイトルに詳述が文量追い付かなくて釣り記事かの如くなっておりますが,裾野の広い汎論のとっかかりを提供申す程度の感覚で,ひとまずお送り致します.

なお,こと「報われない」の根幹原因を探っていくにあたり,「そもそも知らない人の方が割合として多過ぎる」旨に関しましては,先の拙記事「高校物理を修得している人材の稀少さ」(http://wp.me/p6S43T-6Z)も御参考のほど.

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拙著魔導書「黒魔法入門『魔法使いになりたい』」の使い方について(参考)

https://www.amazon.co.jp/dp/B073W48ZHZ/
発売後早速反響を呼んで頂いている模様でして,誠にありがとうございます.(なお出版認証直後に校正すべき点を発見しまして微修正版と差し替えましたが,読者皆様のお手元に渡る時点以前に影響は解消されているはずです…)

 

さて,「使い方」といっても無論当然,書物を利活用する方法とは,原則として読み手の側に委ねられている訳でありまして,著者が「企図と異なる読まれ方をされた」などと主張する事は,原理原則からしても本質的実効性に鑑みても,殆ど意味はありません.(勿論この点は,当サイト記事のようなある程度まとまった量の文章も同じでしょう.)

とはいえ,今著は「演習方法を実際に提供する」「養成講座」と銘打っている以上,「その目的に合意した読者のために,著者の責任範疇でオススメと考える使い方」というものは有り得ます.そこで,今回はその中でも特に「初学者=本来の想定読者層近辺」を対象として,最初期にお伝えしたい事を簡単に補足申しておきたいと思います.

 

先ず,上でも述べた通り,本書は「実際の技術を提供する演習書」です.…と言う事は,一応のたてつけとして「使って[黒魔法を]上手くなってもらう」事が目標です:ですから,著者(私)が述べている此の「目標」と,読者が目標にしている事=何らかの当事者展望との間で,ある程度方向性の一致なり「合意」が出来ている事が,望ましいと言えます.
そりゃ当たり前と言えば当たり前の話で,「学校に入学を志願しようとする人は,その学校の設立理念なり実際の教育提供内容に,合意する事を確認した上で志願しているはずである」というのと全く同じです.(ちなみに余談ですが,「本意でないのに学校へ入学在籍するとどうなるか」については,今回拙著の巻末に少しだけ触れてあります.)

という訳で,著者企図「その1」としては,出来れば本書内容の「演習」を行って,黒魔法が上手くなって,黒魔導士になってほしいのです.もし独習が難しくても,「周りの大人」の誰に訊いてみればいいのか,分かるように道筋までは書中に示してあります(後者の役割の方がむしろ,本書の「特筆的な点」としては際立っているのではないか,とさえ思います…それ自体は必ずしも望ましい事とは限らないながら).

 

そして,もう一つの著者企図(その2)は,「まほうつかいになりたい」当事者以外で関心を持ってくれた読者へ向けての,なかばお願い含みです:もし周囲でそのような,あるいは類似しているかもしれない志願展望を抱いている人を見掛けた場合に,「こういう方法論もが知られているようだよ」といった形で,「提示」の役割を担ってくれたら,と思う次第です.
この場合,あくまで情報提供者は「提示」の役割であって,教育的立場としての責任配慮をもぜひ合わせてお願いしたい限りですが(本人以外の立場から「魔導士になる事をオススメする」方向性についての是非を留保する言及),それでもなお,「知りたい情報が見つからない」立場の人(=当事者)へ広く届けたい,という事は本書の念頭にもある通りですので,ぜひ「相応に心得のある世の中の大人」の皆様におかれましても,それぞれの立場から御協力頂ければ幸いでございます.

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拙著「現代科学に基づく黒魔法入門:『魔法使いになりたい』すべての人のための魔導士養成講座」(魔法科学研究所・刊)が発売されました

https://www.amazon.co.jp/dp/B073W48ZHZ/

という訳で,「数学者としての,クラークの第三法則に基づく魔導士」たる仕事を公刊提供しました(※刊行名義等の微調整は今しばらく随時反映する予定です).無論,「魔導書」の能書き通り,いずこかで「まほうつかい」の概念を知って興味を持った方をも読者対象として,不足無きよう著述しております.更に,本書前書きでも触れている「より若年者向けの丁寧な対応」に関しては,今後重ねて補遺を提供していきたいと考えています.その為にも,読者皆様からの忌憚なき御意見御要望を是非頂戴出来ましたら幸いです.

 

また今回合わせて,Twitter公式アカウント@KazmiBlizzamを開設(稼働開始)しました.基本的には,当サイトその他における筆者アクティビティの告知の他,興味関心に応じた活動のために適宜利用していく意向です.なお,当該アカウントにおける「顕名責任」について,少なくとも私自身側の立場は,苫米地英人博士が提示している「実名明記」に倣う形を採用しています.

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代議制に思う事

過日ご承知の通り東京都議選が行われまして,「あんなに面白そうな祭だったら私も予め都民権を取得しておけばよかった」と毎度の如く思う立場です.公職選挙が祭ポジションでいいのか,という論は以下で触れますが,其の「面白さ」の最たるは矢張り直接民主制ではないかと思いつつ言及します.

 

さて,その選挙戦の中でも,例えば公明党のポスターには「議員報酬2割削減」といの一番に大きく書かれてありまして,まさに「うちがやりました!」と正面から言っています.

で,実際公明党(候補者)に投票するかはともかく,此の端的な政策内容について,選挙権を持つ都民が身内に居たので訊いてみたところ,「税金減るのはいいねえ」との回答を得ました.

ここからが私の試論です.

その同じ人に,「ではあなたは,やおやさんの店頭で150円のリンゴを120円まで値切れますか?」と重ねて訊いてみたところ,「うーん…それはまず難しいと思う」との答えでした.

 

公明党の政策提言(そして可決に至らしめた都議会総体の働き)本来自体については,筆者は特段精査していないのですが,こと「やりました!」の報告ポスター文面を見る限りでは,「先ず代議士の(余計な)仕事を2割カットする」といった言及内容は矢面に立っておらず,あくまでも「報酬を2割減らした」という結果が主眼と位置付けられています.

…対価が2割減ったら,相対的に仕事が25%増えたのと同じ事ではないでしょうか??
あるいは先の例で言えば,4個600円のリンゴを2割値切れば,同じ600円でリンゴが5個買える計算になります.

 

これは大変イヤな予感がします.

当サイトでは,折に触れて「エージェンシー・スラック」「共有地の悲劇」「公正妥当な対価とは如何」といった,先人の知見により相応に確立されてきている概念をも参照しながら,斯様に「社会の形のあり方」について考えてきたつもりなのですが,こと代議士システム(間接民主制,公職選挙)に至って,「面と向かって値切れない相手にでさえも,『紙に名前を書く』(投票)だけなら特段の逡巡も無く出来てしまう」という事情が見えてしまったゆえ(上述エピソード),今更ながら空恐ろしさを感じ,頭を抱えるのみであります.

かかる事情は恐らく,俗に昔から「政治家の能力平均が有権者の能力平均を超える事はない」などと称される構造では済まないのではないか,と思われる由です:どちらかと言うと,アイヒマン実験の類の現象なのか,もしくはNIMBYみたいな括りでしょうか.
いずれにしても,「殆ど何ら『分かってない』立場から,公職選挙権を行使して代議士なり公務員をこき使う」との構図に一部なりとも該当しうる限りは,当サイトの問題意識の一つとして頭書から掲げてきている「正当な対価」の問題の,悪い意味での典型例に違いないと見えます.

 

もっとも,これは必ずしも有権者側が一方的に悪いという問題には恐らくとどまらず,代議士を志す立場もたいがいであろうと思われます.

今回都議選でも安泰の如く当選された,おときた駿氏(北区選出)の「選挙アドレナリン」という言い表しようが,まさにそれを端的に分かりやすく物語っています:即ち「政治家は選挙が本番」感覚認識,という.
もはや何が悪いではなく,構造上の限界的問題ではないかという気もしますけれども.

なぜ選挙期間中は、12時間もほぼ休みなく動き回れたのだろうか…【ほぼ雑談】
http://otokitashun.com/blog/daily/15584/

 

近日も「ベビーカー or 公用車」といったフレーズで論議が一部方面ながら大分盛り上がっていた模様ですが(論議喚起は原則諸手賛成です:筆者方針),かく言う私自身は,電車で優先席に座って周囲の状況を確認してから通信機器の使用如何を判断決定する程度には,社会コスト分配を受ける立場でもあります.「音が聞こえ過ぎると意識安定性が揺らいで削られていくので,耳栓を装備した上で読字に集中してしのぐ」「股関節周囲の筋肉系があまり強くない(内臓手術の後遺影響もあると思われる)為,長時間立位は自律意識に影響する神経系統へも負荷が大きい」あたりが主な事情ですが,シルバーリボンが知られている確率はヘルプマークよりなお低い模様です…;急性症状の致命リスク等が相対的に低い事には違いないかもしれませんが,別段無い訳でもなく.

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「世界トップクラス」なはずの日本の高校数学・理科は,果たしてどれだけ実になっているのか

前回記事では,あたかも「大学受験産業は今後とも生き延びる途が見えている事請け合いである」とでも言っているかのような論を展開していましたが,実はその「裏面」とでも呼ぶべき状況の方こそ,もしあるとすれば遥かな懸念材料ではないかと案じています:

それは即ち,「大学入試対策なりの為に,今までのような『ガリガリ座学』をやる必要が無くなった場合」の展望如何,という事です.

そして,その中でも特に具体的な懸案は,日本の高校教育課程相当の「数学・理科」の修得到達度について,です:要は「高校数学・理科をマトモに使える水準に達している人材が,果たして今後どれだけ育ってくれるか」という重大懸念です.
無論,此の論点はほぼそのまま「大学初年級程度」の各科目修得到達者数・率にも直結します.また,こと「物理」に関しては当サイトの以前記事でも触れた通りです.

 

筆者の存じる限り,日本の若年者が各分野の学習に取り組む際のインセンティブとして,大学入試制度という「なんとなくスタンダード」社会的枠組みの存在が相当効いている,という事は,相応に確かであろうと思われます(功罪共ありつつ).東大入学前から名前が挙がるような英才は別かもしれませんが,少なくとも筆者程度の水準(物理は大学入試ほぼ満点,数学は東大模試で最高全国2位・駿台偏差値75超,東大大学院進学時点でも「成績上位6分の1以内」が判明)の学習者の経験では,高校時代に「相応の(相当の)記述答案作成的座学」を含む受験勉強を通った結果として,ようやく当該学術分野(教科・科目)内容を「相応に理解」する段階に辿り着いた,というのが正直な実感です.

 

この「ガリガリ演習」の効果は識者の公論においても認められており,例えば河東泰之教授の米国留学中体験記では大変インパクトのある実例が多く述べられています.あるいは,苫米地英人博士も複数の著書中で,「日本の高校生の数学学習は工学的用途に偏り過ぎていると見える」旨を指摘される一方で,「理学のアメリカと工学の日本」という切り口では,かかる「工学」が日本の生産性基盤を支えてきた事を是認されています.更には「大学進学志望者への試験では数学と物理を必修にすべし」との提言もあり,各学術分野の課程内訳はともかく,大局としての体系知識心得が必要,という意味においては合意可能であるものと思われます.

 

…そこへきて,もし現行大学入試のような競争選抜試験の形をしている「ガリガリ座学に勤しむ為の動機として機能する目標」が見え難くなったとき,日本の高校生(若年学習者)の中に果たして,どれほどの「なお走る」=そして相応に成業する人が,残るでしょうか.かく言う筆者は,つい先日の記事でも「高校進学以降までRPGに勤しんでいた」と露呈開示しておったばかりですが,実際そこで培ったのは「暗記とやり込みにかける気合」である事もおおよそ間違い無く,尚且つその直後に大学入試対策受験勉強へ向けて使い始めた「気合」とは,まさに従前長らく続けてきたRPG経験の中で培ったものに他なりません.RPGタイトル複数をカンストまでやり込んだ気合は単純に趣味だったかもしれませんが,受験勉強(&そこから続く大学以降の学術分野知識習得)に対しては,「その気合が活かせる」と認識していなければ,まずもって着手する主観的機会すら無かったのではないか,と今なお思います.

「塞翁が馬」と俯瞰されれば上述いずれもそれまでの範疇になるのかもしれませんが,さてもなお,「結果」の形となった事象に恩恵を被る立場の我々は,それこそ競争選抜試験に典型される如く,「結果が見える目標」の雛形を,社会システムの中に見えやすい形で置いておく程度には,具体的に踏み込んでもよいのではないでしょうか.

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大学受験コンサルの思う事

そろそろ多少は考えがまとまった気分になってきたので,現時点で見えるところを書き付けておきます.

 

●入学者選抜(大学入試)が客観評価として何らかのスコアリング(数値化)基準をもって行われる限り,「合格点」≒目標得点,といった概念は今後とも残存しうるものと思われる.

●にもかかわらず,現行試験制度においてすら,当事者本人として「目標」を何ら意識しないままに,いわゆる「受験勉強」への取り組みを進めている受験生・高校生等は,相当多数割合に上るのではないかと危惧される.

●また,大学入学志望者の資質選抜において,「知識が少ない方が良い」という基準が優位となる事は,今後ともまず無いと思われる.即ち,この意味で「不勉強」な志願者が大学入学許可を得る際に有利となる事は無い.

●上述の「知識」を各個人が得るに際して,その全てないし大半を「実体験」によって得る,という事は,実際的でないし,のみならず,なおも「不足」が残る可能性が高い.この不足する部分とは,ごく素朴な古典的術語では「汎化」と称される概念の範疇に相当するのだろうけれども,この際には例えば読書のような座学的方法技術の導入もが(現行の方法論とおおよそ同様に)不可欠と思われる.

 

そんな訳で,すっかり色めき立っている(今でも??)大学進学希望者選抜試験方式改正…要するにいわゆる「2020年大学入試改革」の事ですが,筆者は「目標スコア取得達成ゲームのルールが変わるだけ」に過ぎない,程度の認識でおります.かつての当事者として,また教育職においての経験を含めて,展望見える限りで.

もちろん,「選抜する側(≒出題者)の意図」すなわち「大学が求める入学者像」という典型論点もある訳ですが,「それ」に対して実際の試験制度が如何になっているか,という事情は,現行の状況においても露呈している通りです.
端的には,「生き残りを懸けた再編」こそあっても,「上位層の集中による選抜激化」の構図の方は,より既存の状況に近く映るのではないか,と.

 

つい先日も,ある有名難関大学入試への合格を万全としたい,と仰る受験生御本人に,

●入試本番の大学個別学力試験(いわゆる2次試験)で,合計何点=各科目何点ずつ欲しいんですか,またセンター試験で何点欲しいですか

←●その為に必要な学習取り組みをどのようにしますか,教材は何を使用しますか・それは手元にありますか,その学習の量を時間で見積もるとおおよそ累計何時間・何週間・週当たり何時間ですか,またあなたの志望する入試で課される科目全体への配分の中で,個々の科目に掛ける学習量の位置付け・タイミングスケジュールはどのようになっていますか

←●今から入試本番まで「受験勉強」に使える学習時間・量はおおよそどのくらいですか,また現時点であなたの学力を目標とする入試の得点で測ると,まぐれ当たりでない点数はいくらですか

と訊いてみたところ,どれ一つとしてマトモな応えが返って来なくて唖然とした限りなのですが,敢えて厳しく指摘言及するなら,「目的が不明確なまま勉強には取り組む従順なよいこ」が「ロコツな数値目標をクリアする為に正面から入試ゲーム攻略に臨む(セミ)プロ受験生」よりマシと評しうる基準は,今一つ思い浮かびません.

 

実際には,私どものような職業専門家が上記のような「打算」計画を立案して提供する務めを担っている訳ですけれども,その計画の内訳である学習内容を「実施」するのは,あくまで学習者本人です.

これもよく訊く試問(苦笑)なのですが,「全方位的に勤勉」たろうとする(?)生徒は,大学受験に際して「家庭科」や「ドイツ語」も満点ないし高得点を目指して勤勉に取り組むのでしょうか??と.個人的には,入試に無いような科目も知識体系として(の捉え方に限って)すら有益なので,高校平常学習程度でマトモに取り組んでおく事は元来良いとも思っていますけれども.
とはいえ,それが「入試本番の得点に貢献するか」については,職責として実際別途の言及もしています.にもかかわらず,上述の論は理解出来る受験生(及び,さらには保護者層)の中に「まんべんなく高得点率で安定合格」を目標に設定しようとする例が,枚挙に暇無く後を絶たないのは,彼等の教育水準の高さに比しても相当不可思議です.その背景や一体,縋り宗教の類か何かなのでしょうか.

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教育において「財源が有れば出来る事」は果たしてどの程度か

最近も幾つかの文教系会合で末席にしれっと入っておおよそ正座しておったのですが,「相変わらず文科省系統は予算もってくる力が乏しいっす」と「現場教員は激務過ぎて死んじゃいます」との現状認識二大巨頭が従前知識を大幅アップデートな感じで見て取れまして,国政レベルで随時上がってくる報道タイムライン(主に最近のよろしくない方面話題)への留意と視線を分散させながら,頭だか腹だかよく分からないけどなんか段々痛くなってくる気分で,素人意見表明のタイミングさえ全部スルーした有様でした.
それ自体は単に「論題の箇条を作ろうとするベースとして採ってくる現場事例が筋悪下手過ぎるだろう」という斬り方でも済んでしまう程度の談かもしれませんが,こと「じゃあ『逆』は果たしてどれほどアリなのか」と思い起こしてみたときに,やはり「金を掛けたらイイ教育は出来るのか?」との一行設問にまで挙げると,一言でキレイに応える事は中々…いや到底難しいように思われる,と申さざるを得ません.

なるほど「金が無いと厳しい」は有るかもしれませんが,こと教育において,相応の「結果」に何よりも直結するのは,学習当事者(=教育の「享受者」)本人の「意欲」ではないか,と,私個人なりの職務経験の限り見えるところで,やはり思う次第です.(ところで全く余談ですが,今年で私の教育職経験がさる大台に乗っていた事に書きながら気付きました…)

 

そして,この「意欲」を支える重要な因子として「環境」もが効いているのではないか,という試論が,匿名ながら近日上がっていました(下記リンク記事).個人の人生遍歴譚なので安直な一般化は到底困難な内容も多く見えますが,他方では思い当るところある「構図」も垣間見えるかと存じますので,ひとまず御紹介:

高専・奨学金でなんとか高学歴?になって、感じた・思ったこととか
http://anond.hatelabo.jp/20170609081119

…ナルホド,「金が無くて厳しい」の一例はこういう当事者感覚か,とも見て取れます.

 

他方で,最近は教育分野でも御自身の経験(まさに真っ最中)を含めて記事を多数書かれまた大いに参照されている,山本一郎さんの論の中には,こんな一幕もあります:

子供の「好き」を未来の糧にする大学入試改革のこと
http://kodomomirai.com/column/education/1217.html

そうなると、子供の教育、コントロールというのはとっても大事になってくるように思うわけです。とりわけ、何に興味を持たせるか、あるいは持たせないかってその子の将来を左右するといっても過言ではない。というのも、例えば長男が「つくば宇宙センターに行きたい」というので子供三人連れて筑波エキスプレスに乗って宇宙観光にいくじゃないですか。こっちは宇宙の図鑑持って、ネットで太陽系を調べながらわくわくで向かう途中に、似た年頃の子供を抱えた一家が戦隊モノの資料を一生懸命見ながら時間を潰している。もちろん、好きなコンテンツに熱心になるのは悪いことじゃないですよ。でも、子供の教育と将来の生産性を考えたら、戦隊モノやアニメに時間を費やすことが子供の将来に良い影響を与えるんだろうか、と悩んでしまうわけです。目の肥えた良い消費者になることはあっても、そういう戦隊ものを参考にできるようなコンテンツ制作者にならない限り子供のころから培った目利きの能力が社会で役に立つ能力になるはずもない。

拙宅山本家だって、親が仕事で忙しいとiPad渡して好きな動画を見せてるときがあって、そうなると三人でドラえもん観てたりします。長男も次男も一時期は妖怪ウォッチにハマって、メダル集めてました。そういうものも好きで良い。ただ、未来に対して生産的になるであろう興味関心と、単に子供の消費者として時間をつぶすだけの代物とのバランスをどうとるのがいいのか、凄く、凄く悩みます。喉のところまで、そんなもの観てないで算数でもやれといいたくなる、それをグッと堪えて「ねえ、ドラえもんの映画はどうだったの」とにこやかに訊いたりします。次男が「タイムマシンを作れるようになりたい」と言われたら、すかさず地球の歴史は38億年あってね、みたいな話に振りながら三兄弟が「宇宙って神秘的だね、凄いね」って言い出す流れにもっていくという涙ぐましい努力が必要なんですよ。

同著者の他の記事を併せて読むと,大局としてはさすがに相当マトモな事を仰っていますし,親の務めの一として「期待値を上げる」企図にも臆面なく言及されているあたりには,世の中における当事者ポジション論客としての誠実さやバランス感覚をも感じます.

 

とはいえ,何度でも言いますけれど(こと「教育」分野において言及するに際しては),小学生当時に同級生から煽られて始めた某RPGがなければ,今の私は絶対に無い訳です.その後私が高校進学以降までRPGに人生時間の多くを投入する事になる傍らで,小学校生活半ばから塾通いを始めた級友の多くは,果たして所期の目的に比してそれ相応の成業に至ったのでしょうか.少なくともこと「進学実績」的基準に照らしてみた限り,私以外に同程度の教育水準まで辿り着いた同期は,通塾組の中にこそ殆ど見当りません.尤も,同様の構図は進学した先の地元公立高校同期を見ても指摘出来る事であり,そうすると「教育って何だっけ,一体何を出来るのか」といった,それこそ筋悪アホ過ぎる展開に陥るのかもしれませんけれども.

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虹色旗を掲げた事がない立場から反省を再開する旨

性別欄「二択以外」(ISO5218でいうところの「9」)のなお多様さと言うか,従前の私自身の認識が如何に甘かったかを思い知る機会を直近頂戴していたので,いずれもうちょっと深掘りして記事を書きたいと思いますが,取り急ぎ上述の旨御一報申し上げます.

 

端的な例としてはこのあたり(一連ツイート):

個別各論の中には合意出来る内容もしばしば有るのですが,わりと根本的なところで「一人称身体感覚」がおそらく彼と私とでは大分「別種」な気がします.

当サイトでは2か月ほど前から折に触れて上記引用の元発言者である青木志貴さんを槍玉に挙げておった訳ですが(各記事参照),その後に謎の御招待イベントが発生して末席にあずかったり別途の事情で仁義御挨拶を通していたりする中で,御当人の姿にも直接お目に掛かる事となりまして,率直に「どうなってるのか」気になって見せて頂こうとする訳です.

 

…何というのでしょうか,この,大雑把には「自分と同じ括り」に一旦入れておく(そのくらいしか方針を思いつかない)扱いになるものの,手元知識で持っているラインナップの範疇に見当たらない程度の「別種」感.

 

性別コード「9」も安直に大同団結って話で片付ける事じゃ済まないんだろうな,と直感せざるを得ない経験でありました.反省.

 

なおこの点で「ジョグジャカルタ原則」はずっとマトモな定義を述べていますが,こちらは「性別の理論値が無限通り存在する」事を認めているので,計算実装が原理的に追い付かないという難があります.

近日も「職場のトイレを法令に則って2択着実にすべし」との論題が挙がっており(参考:http://news.livedoor.com/article/detail/13036859/https://news.yahoo.co.jp/pickup/6239109),個人的には「むしろカンベンして頂きたい」とさえ思う次第なのですが,当然の流れとして「所望如何」と周囲の数学者からも訊かれるところでありまして,まぁ「ISO5218で言うところの9」くらいが関の山かな,と応えてきております.
痴漢冤罪関連の件は別稿http://wp.me/p6S43T-5zでも触れたので今回はそこまで風呂敷広げない.

AP通信が「単数形they」を認めたそうですが(下述リンク記事参照),想定通りbe動詞のあたりで英語圏各位は誠に御苦労様であります.その点日本語は「彼」で済むから楽なのであって,「彼女[あのおんな]」は蔑称含みではないか,との激論は是非シラス台地が出来る位にまで盛り上がって頂ければと存じます.

theyの三人称単数OK 性的少数者に配慮
https://mainichi.jp/articles/20170519/k00/00m/040/025000c

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人類の生物学的存続と競合する可能性のある「人権」は,果たしてどこまで認めうるのでしょうか

表題を見るからにややこしそうな記事が出ていたので参照します:

青木志貴の魔王式随想:「友人」という存在と「女子の輪」
https://mantan-web.jp/2017/04/16/20170416dog00m200011000c.html

当サイトは基本的に「芸能」方面へはあまり興味がないのですが,上記引用記事中で述べられている生育歴・特に学校環境関係のあたりで,私自身の経験に照らしても「思い当たるフシがあり過ぎる」と直感した由,今回言及させて頂く事としました.

ちなみに,私の場合「いじめ」から逃れる事が出来た理由(おそらく唯一最大の)は,「中学校進学時に受験組が一斉に抜けてくれた御蔭で,進学先の地元公立中学校で私が学年首席を獲れた」という事情であって,此れは「人生クジ」を何度引き直したとしても2度目は引けないだろう,と思うピンポイントエピソードの最たるものです.

 

さて,引用記事の内容に戻りますと:内容を順に追ってお読み頂ければ見える通り,本件は「文科省事案」込みな訳です.と敢えて強調しておきたい.
かく言う私個人の経験の限りでも,社会的に「性別非公開」を徹底しようとした際に,こと「学校的な環境」のぶち当たり堅さはやはり一段キツいように感じられる場面が珍しくありません.

実際には,例えば性同一性障害に対応した小学校の例などは随分前から報道にも挙がっていますし,またより近年では「性的少数者について現職教員が座学で学んでいる」といった話も聞き及んでいたりしますが(直感的には「本当に大丈夫なのかそれは」と逆の意味で震え上がる向きも否みがたくありつつ…),
『例外的対応』をどこまで出来るのか」と,「そもそもどこまで対応すべきなのか」という,少なくとも二本立てというか二律背反に近い命題が,端的に本件人権の錦の御旗を支える柱になっている構図ではないか…とも考えうるあたりで,明確な「処方箋」を提示する事が難しくなってくるように感じられます.

 

勿論,大義名分としては「国連レベルからの人権」(ジョグジャカルタ原則なり)という訳で,これはこれで有史以来人類の叡智の一つの結晶と言えます.しかし他方では,かかる「人権」を認める事が出来る論の前提として「世界人口は保たれている(実際上は未だ増え続けている)」という,算数上の母集団規模に,全く依存している話である事にも相違ありません.

前回の拙記事では,山本一郎さんの提示した「ロールモデル」案に異見を唱える立場から御紹介しましたが,これがより窮極的に「人権擁護の合議結論が人類の存亡と競合する」ような状況となった場合に,果たしてどこまで個々人の人権を主張しますか,たとえ自分が当事者だとしても,という段になると,「お前の其の何気ない言い草が人命を奪っているのだ」は甚大なブーメランとして返って来る事になりかねません.

 

もしくは,総体として「人類が偏見を強めたがっている」方向性が顕わになった時,果たして其処に異見を持って旗印を振れる根拠は如何に求め得るのか? とも換言出来ましょうか.

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