「見てから走る」出来合いロールモデル採用,という方針の限界について

山本一郎さんの物議記事(※内容は至って真っ当です:御一読推奨)「不幸の連鎖、男性の3人に1人「生涯未婚」時代」( http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/022700044/032900003/ )で広範に触れられている各論についての異見と,こだまさんの話題書「夫のちんぽが入らない」( http://www.fusosha.co.jp/special/kodama/ )の背景に透けて見える重大な社会構造的問題との,「間」を埋めるべく持論を展開したいと思っているのですが,solutionと言い張れる程度の着地点が論として未だ今一つ見えた気がしないので,端的に箇条書き風味キーワードだけ提示します:

 

それは,「ステレオタイプ的ロールモデル」がとっくに限界を迎えている(そして其の瓦解しつつある様が見え始めている)のではないか,という事です.

 

数学的に言ってしまえばそりゃ当り前で,既知の定型化された「目標」に向かって人生を注いで走ったとしても,運ゲーとしてさえ決して分が良いとは言えない部類ですし,逆にもしそんな事が成り立つのなら「イノベーション」は発生し得ないという事になってしまいます.
或いは,此の中間で「三十年逃げ延びれば自分の現世は勝つる」と踏んで,手堅い国家資格者のようなプレイロールに賭ける,といった”選択”判断も有るのかもしれませんが,それこそ「国家百年単位の未来先食い」への加担助長どころか戦犯本丸に他ならないのではないでしょうか.

職務上近しい分野から例を採れば,今年も東京大学合格者数ランキングは盛況の模様ですし,おおたとしまささんの近著「習い事狂騒曲」( http://toyokeizai.net/articles/-/161822 )も,直近の時勢需要によくマッチした切り口と存じます(かく言う私は発売前予約で購入しながら未だ積んでおります…目次周辺と,上記紹介リンクの東洋経済記事だけ概観しました).
その最中では勿論,私自身も「逆転合格」の御旗の下で,一見して勝ち組エリートコースへの道程を提供している…かのように見せかける商売を担っている訳ですが,実際には密かに「その前提が壊れた場合に耐えうる教育」をもプログラムの一環として織り込んでいます.なお此の指針原則は,恩師平野弘之先生から学んだ事そのものです.

 

「100年先の未来へつながる展望が見えない事にアクセルを踏む気には到底成れない」などと言うと,「其の手前の50年の国家単位システムが財政の一面でさえ危ういと指摘して居るのに,御前は何故足元浮かんでおるのじゃ」と斬り返される事鮮やか必定残当かもしれませんけれども,本邦の先人達(典型例が官僚にも多く見られます)は実際に「100年単位」の計画を作り進めて結果事を成してきた向きも多分に有る訳でして,往時の「見通しの難しさ」や「リソース面での厳しさ」等々を推察するに,現代後輩の我々が論議に挙げている題など些細に見えかねない程度の桁違い感ではないか,と素朴に思う次第です.

Share

「性別規定」なる代物は,一体何だったんでしたっけ

青木志貴さんが百合舞台キャストと聞いてなかなか日本語の理解が追いついていないブリザムです.ごきげんよう.

 

ところで,日本女子大学が「脳自認ベースでの女性」を受け入れるかどうかを検討の俎上に載せたとの事で,まとまった報道記事になっています:

「体は男、心は女性」入学可能に? 日本女子大が検討へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170319-00000070-asahi-soci

幾分長めの記事本文から読み取れる「世論向けを意識したと思しき温度感」に,どこからツッコんでいいやら迷いまくるに事欠かない論題(一連の)ではあるのですが,先に今回記事で深くは触れない項目を2点挙げておきますと:

●そもそも「性別が二択の前提で制約的性別条項を設ける」事自体が,当事者(今回の場合学校)自ら地雷を引き当ててしまっている状況の元凶には違いありません.ネットスラングで言うところの「乙」としか申しようも無い程度です.なぜなら,学校制度みたいな教育においては,性別とか関係無くないすか.

●また,「女子大は存在自体が憲法違反ではないか」との論については,既に随分前から苫米地英人博士が著書で複数回にわたって言及してきているので,原則はそこで足りていると思います∴各著参照.

 

さて,その上でこと私が気になるのは,むしろ斯様な「制約的性別条項」を設けていない,いわゆる”共学”的な組織制度(より一般には「社会システム」各方面)の数々です.

かく言う私自身は,小学校ではトイレ選択に際して制約が無く(2種類有りましたがその時々でテキトウに使ってました),中学高校では制服規定を「違憲」の一言で更地にして私服通学を徹底し,大学は旧制男子校(東京帝大)なので選択必須の性別欄は無く(今では人道的理由で「改善」されているかもしれませんが,学部入学当時は「女子はチェック」という項目があるのみでした),大学院は旧制女高師でこれまた書類に性別記入欄が無い,と,現行日本国憲法制定以来一度も改正されていない条文を単にそのまま使うだけで「事実上ほぼ困らない」環境を享受してきた経験を持っているので,「同じようにやればいいのでは」と思う訳です.

が,その私の出身小学校にも,「二択のトイレ」自体は確かに有った訳です.

ましてや,当サイトでさんざん既述の通り(一例:http://wp.me/p6S43T-4l),「脳ミソ意識自認ベース側に寄せた結果,解剖学的医学特性とは『逆寄せ』になる」という意味で「二択」自体は足りている人なら,まだしも今回報道のような措置で「救済」を得る可能性がありますけれども,他方では「そもそも二択以外」の場合に該当する人(統計調査上1%前後存在が判明しています:上記リンク先拙記事参照.)への「対応」は,未だ議論の俎上に挙がっている様子が見受けられません.

 

つい先日も,数理科学の心得を有する方面から「二値定数函数だと思っていたパラメータ(性別)を変数に一般化された時点で,人間の大多数の理解計算がふっ飛ぶor意識が落ちるのはやむなかろう」と指摘を頂いて,「へぇ~そうなんだ」と襟を正す素振りを見せてその場は過ごしたのですが,存じる限りでも公教育関係者各位は,この「二択以上のマイナーな性別(を有する人)」という概念の取り扱いについて,概して相当逡巡する動きとなっており,暫定「棚上げ」結論としてから数年来そのままな話も聞き及ぶところです.

 

勿論,最近では上述のように大規模統計調査の成果も広く知られるようになってきており,(セクシュアルマイノリティに限らず,より一般に)統計割合的少数者なるものが「母集団の大きさが相応に有って初めて直視可能になる」という構造も,あらためてエビデンスの下支えを得つつ,何とか認識出来る形に進んできています.

そんな中で,「今に始まった話でも何でもなく,昔から『結果的に生殖に寄与しない』層というのは居たし知られている事な訳で,彼らの各人その人の人生としてのロールモデルには一般に『性別』因子って必須ではないよね」と思う素朴な当事者意見をも,当サイトでは既に折に触れて述べてきている通りです.

こういう事を言うと,国家政策レベルで「人」の統計動向を見ていらっしゃる識者の立場,それこそ例えばやまもといちろうさん(http://yakan-hiko.com/BN6170)あたりからは,別の観点から厳しい御異見を頂戴しそうですが,

こと個々人が「自分の人生」において,社会的合議の下で定まった「二択の性別」に,必ずしも合致するとは,一般には限らないのではないでしょうか?? という,当たり前の事を述べたいだけなのですけれども.

Share

高校物理を修得している人材の稀少さ

過日,民間の国内大手企業の技術者らと話をする機会を得たのですが,「高校物理で習う閉回路図もマトモに描ける人材が中々居ない」という半ば泣き言に近いボヤキ合いの席にそのまま居合わせる事となりまして,教育関係者の一として「そういえば,高校で物理の履修率って1割台とかじゃなかったっけ」と一言挟んだら場の空気が驚天動地間近と見えたので,あらためて公式統計情報を確認してみた次第です:

文部科学省 教育課程部会 理科ワーキンググループ
理科に関する資料
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/060/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/05/12/1370460_8.pdf
p.6 現行学習指導要領における理科の改善等

物理基礎     物理

普通科等     65.6%    22.8%

職業教育を主と  41.3%    1.7%
する専門学科

総合学科     28.2%    5.9%

合計       56.7%    16.2%

なるほど…「普通科等」に何とか限っても2割がいいところ,という現状はやはり確かなようです.

 

とは言え,履修した「事になっている」人が必ずしも当該科目の内容をマトモに修得しているか?と更に疑問を立てても,当サイトの読者各位にはもはや「大義名分」を振りかざして怒るような方は無いでしょう.

という訳で,本邦最大の統一国家試験の結果成績から,物理という高等学校科目の修得状況を,より実態に近いと思われる形で参照してみる事にします:

平成29年度大学入試センター試験実施結果の概要
http://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00009105.pdf&n=%E5%88%A5%E6%B7%BB%EF%BC%92%EF%BC%9A%E3%80%90%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E3%83%BB%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%80%91%E5%B9%B3%E6%88%9029%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A5%E8%A9%A6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%A9%A6%E9%A8%93%E5%AE%9F%E6%96%BD%E7%B5%90%E6%9E%9C%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81%2B%2B-%2B%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.pdf

p.2 平成29年度大学入試センター試験(本試験)

総受験者数547591人

物理 受験者156719人(28.6%) 平均62.88点 満点100 標準偏差22.45

配点(満点)に比して標準偏差が比較的大きいので「基準」の定め方に一寸迷うところですが,例えば「センター試験の物理で8割を切るようでは使い物にならん」という事で「高校物理がマトモに出来る層」を抽出してみますと:

80-62.88=17.12
17.12/22.45=0.7626

正規分布表はいつもの先達にお世話になる事としまして,
https://staff.aist.go.jp/t.ihara/normsdist.html
有効数字は元データの時点でブレが有るので適宜それっぽく計算すれば:

∴80点=偏差値57.6
=同科目受験者中上位22.4%
=35042人(センター本試験総受験者中6.40%)

センター物理80点以上は同学年中3万5千人,だそうで.

 

ちなみに,「80点程度ではヌルい,少なくとも偏差値60(86点/満点100)を割るようでは科目内容修得は疑わしい」と更に厳しく見る事にした場合には:

86-62.88=23.12
23.12/22.45=1.030
∴86点=偏差値60.3
=同科目受験者中上位15.2%
=23742人(センター本試験総受験者中4.34%)

高校物理の「マトモな人」は2万4千人足らずという事になってしまいました.

 

上記以外に,センター試験を通っていなくて「高校物理がマトモに身についている人」が果たしてどの程度居るのか,人数割合を量的に測る事は難しそうですが,一つの「大口」集団としては,高等専門学校(高専)出身者という括りが考えられます.高専は事実上大半が理工系学科に特化しているので,とりあえず高専卒業者の人数を確認してみましょう:

高等専門学校の現状について
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/067/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2015/06/24/1358990_03.pdf

上記データは数年前のものながら,p.4を参照すると「10580人」との事です.
なお,直近の調査ではもうちょっと少なく,1万人を下回っているようです(例えば文部科学省「学校基本調査」).

この高専経由者「1万人」の全員が物理(高等学校科目相当内容)をマトモに修得して使えるようになっている…などと期待するのは,統計割合としてはさすがに高望みに過ぎるかとしても,
実際問題として,上述の2万4千人なり3万5千人なりにこの1万人を足したところで,学年あたり「高校程度物理をマトモに学修した人」はせいぜい4万人前後,という事にしかなりません.

冒頭の話で言うと,「閉回路図を描ける人材」を採ってこようと思ったら,各年度この「4万人」の中から争奪戦に勝つ事が求められる…という事になりましょうか.

Share

「段差」を解消する意識のありよう

ふと気づいてみると,Google検索キーワード「住民票 性別」で当サイト記事(http://wp.me/p6S43T-3E)が1位になっていたのですね.もう1年近く前に書いたこの記事は,私自身の”失敗談”反省をも含めて,法制度の振り返りと「手続き的実用」の方法技術御紹介を合わせた内容でして,端的に言えば「社会制度を(必要なら論議も含めつつ)適確に活用して,各個人当事者本人が主観レベルでも納得いく形で,不満不足無く活動していく事が出来る為の一助となれれば」と思って公開したものです.

ちなみに,検索キーワード「健康保険証 性別」だと未だなかなか拙記事は出てこないのですが,上述記事の「健康保険証バージョン」も実践的成果報告&方法論(=「使い方」)込みで本年1月に公開しています(http://wp.me/p6S43T-6t).こちらの記事では特に,従前の厚生労働省見解にあった「やむを得ない場合」という点に切り込んで,制度利用者の立場からは「より強い」主張もが認められうる旨を,私自身の実例をふまえて紹介している事が特徴かと存じます.

 

私自身の立場としては,次のように行政対応が「当初」時点から,性別欄を言わば「特記事項」的な扱いとしてくれれば,当事者としてなお「楽」になるのではないか,と思っているところですけれども:

申請書・証明書等の性別記入欄および性別記載を廃止しました
http://www.city.iruma.saitama.jp/todokede/tetsuduki/seibetsukisai.html

 

さて,斯様に当サイトは「教育」を看板に掲げつつも,実際には活動の相当割合を「性別欄の不記載,ないしは欄自体の抹消」といった方向に割いてきている訳ですが,此の本来目的は何だったか,とあらためて考えてみますと:

一言でいえば,「無用な『段差』の解消」という事になるのではないか,と思います.

性別欄を非公開なり廃止としたい人の大多数は,本来別に人権活動家(Activist)などになりたい訳でも何でもなくて,単に何がしか自分が(特に社会的に)活動したい際に,ともすれば「障壁」となりうる性別欄の存在を,そのタイミングで出て来ずに済むようになっていて欲しい,と思っているだけ…なはずではないでしょうか.

性別欄の存在やその内訳(例えば「2択」)に,何ら違和感をおぼえず,用意された欄のままに記載に倣う事に異論無い人達(統計割合上の大多数…参考拙記事:http://wp.me/p6S43T-4l)にとっては,本当に「何でもない事」なのかもしれませんけれども,こと統計上少数の「思い当るところがある」当事者においては,このちょっとした「段差」が,自らの社会的生存を脅かしかねない因子として,立ちはだかる構図とさえ見える状況が,しばしば発生存在している訳です.

 

自他共に「人格に比して医学特性に恵まれている」との評を享受しつつ,「性別認識は人類最大の偏見ではないか」などと公言してやまない私ではありますが,今回もあらためて述べているところの「本来何がしたいのか」という意味では,必ずしも常日頃から男装なり女装なりといったコスプレをしている状態を続けたい訳でもありません(と言うより,今現在は男装も女装もあまりやる気ありません:無論,社会的立ち居振る舞いの意味も含めて).

今更ながら,「心のバリアフリー」といったキーワードをも「私自身一人称視点での意味」として捉えた上で,本来やりたい事を見据えて,そのために必要なら社会的活動をも随時行っていきたいと思っています.

…とりあえず,「色のついてない車椅子マークのトイレ」の扉に「健常者の使用禁止」と貼り出していた某公共施設は許さんですが.

Share

暫定報:「2020年教育改革」について/後期入試対策講座募集(若干名)

2020年公教育改革(特に大学入試制度改正)に関して,「どうなるんですか」「いかがお考えですか」といった御質問を,特にオフラインで直接お会いした方からしばしば受けますので,一応「現時点での私の見解」まで示しておこうと思います.

一言でいうと,「ソリューションが未だ見えない」のです.それゆえ,「solution無きproblemを指摘言及する事は善でない」と教え込まれている私は,其の職責に沿って,これまで言及を避けてきました.
しかし他方では,当該公教育制度改正に「バラ色の未来(※死語…?)」を抱いているかのような言説も多く見受けられ,懸念は日増しに積もっていきます;…必ずしもそんな,諸手を挙げて喜べるほどオメデタイ話にまで無事着地出来るかは,現時点までの情報の限りでは「未だ不確定」ですよ,と.

更に踏み込んで言うなら,「根底からの・かつ本質的なソリューション」という代物も,一応考える事は出来ます.…が,ここへ本格的に手を突っ込んでしまうと,「ソリューション…なの??」と言わざるを得ない程の大変な事態まで着火即炎上一直線であって,此の意味でやはり「安全なソリューション」とは到底申し難いところ否めません.

結局のところ,制度の変わり目に「最初の1ターン」程度の混乱が生じる事などは一般論で織り込み済の範疇であって,其の制度を利用する[乗っかる]立場の最善手としては「制度ルールを上手く使いきる」取り組みをもって臨む事,という結論に至るのみなのですが,とはいえ,それら公教育システムを「上手く使う」技術というのも一応「教授可能な方法論・知識体系」の範疇ではありますので,彼ら意欲者[それも比較的にして特に高い]へ幾許かでも助力なり救済なりを提供したく,職務としての提供を検討中です.

 

<関連別件>
なお,並行して「大学入試(国公立大学等)後期日程直前対策」指導を,通常の個別指導受験対策の範疇として承ります(指導2時間につき5万円,他交通費等実費).但し,実効性(合格という成果)を得るためには,国公立大学2次試験前期日程より前の時点から「準備」に着手する必要があります(遅くとも2/23(木)開始必須).

こちらの指導プログラムを希望される方は,eメールにて
タイトルを「大学入試後期日程直前対策指導希望」とした上,本文に
(1)お名前
(2)ご住所
(3)電話番号(日中緊急連絡先)
(4)後期試験受験予定大学・学部・学科等/その入試日
(5)過去問題・模試問題集(特化したものがある場合)等が手元にあるかどうか
を記載して,nlimeblizzam【at】hotmail.comまで御連絡下さい.
<お申込後の流れ>
●折り返し当方より,代金振込先等の案内を返信します.
●入金が確認出来た(迅速の為,振込完了画面のスクリーンショット等も可能なら御用意下さい)時点で,メールor電話にて「前期試験終了後ただちに受験者本人が取り組むべき内容」を,指導本編当日より先行してお伝えします.
●指導日程については,生徒と指導者当方の相互調整で決定します.現時点での対応可能最速日程は2/28(火)です.

Share

健康保険証の表面性別欄は随時「不記載・非公開」とする事が可能である

先日,健康保険被保険者証の再交付を申請したのですが,その際に「性別欄につき非表示を求める」旨の意思表示をあわせて申請書を提出したところ,当該保険証の表面記載性別欄が「裏面参照」のみの表示となり,実質的に「保険証の表面に性別を明記しない」形が実現した事となりました.

この取り扱い自体は,2012年9月21日厚生労働省「被保険者証の性別表記について」(http://kouseikyoku.mhlw.go.jp/kyushu/gyomu/gyomu/hoken_kikan/tsuchi/documents/tsuchi_376.pdf)以降,「被保険者から被保険者証の表面に戸籍上の性別を記載してほしくない旨の申し出があり,やむを得ない理由があると保険者が判断した場合には,被保険者証の表面ではなく裏面に戸籍上の性別を記載できるようにする」という形で,既に実現しているものです.

しかし今回は,必ずしも 「やむを得ない理由」でなくとも,正当な理由として認められれば上記の通り「裏面参照」の取り扱いを受ける事は可能である(特に,例えば「性同一性障害のため」といった具体的事情の疎明を必要としない)と認識される実例でしたので,先ずその旨の御報告を兼ねて今回記事で紹介します.

 

今回私が提出していたのは「健康保険被保険者証再交付申請書」なのですが(理由は単に従前の保険証を紛失した為),新規交付申請時においても原則は同様であろうと思われます.

上記申請手続において,性別欄に関し留意した点は次の通りです:

●「再交付が必要な方」の記載欄「氏名/生年月日/性別/再交付の理由」の4項目の内,「性別」欄のチェックボックス「□男 □女」のいずれにも記入をせず,空欄のまま提出.

●書面下部の「備考」欄に,次の通り,性別を公表しない旨の意思表示を明記:

性別欄につき非表示を求めます.
根拠:国際連合人権理事会「性的指向並びに性同一性に関連した国際人権法の適用上のジョグジャカルタ原則」(2007年),日本国憲法第98条2項

ちなみに,健康保険証(再)交付申請の窓口においては,申請書に「性別欄表面不記載を求める理由」の記載を要望する旨の案内がなされていたところ,私は「理由というものに該当するかは分からないが,根拠法令は有るので当該条文を記載する事は出来る」と口頭で説明し,その通り記入提出して受理された,という流れでした.

 

上述の厚生労働省回答に基づく取り扱いでは「やむを得ない理由があると保険者が判断した場合」となっていますが,私の場合は「確立した国際法規であって,日本国も憲法に基づき遵守すべきもの」を主張(意思表示)の根拠として提示したのみであり,性別欄を非公開とすべき旨を求める「理由」自体については,それすら表明していない,という認識です.

果たして私の今回事例が,厚生労働省なり,保険者である全国健康保険協会(協会けんぽ)なり同協会都道府県支部なりにおいて「やむを得ない」と認められたのかは不明ですが,他の事例における法制の経験感覚に比する限りでは,そこまで厳しい判断を経ている感はあまり見受けられません.存じる限りで,「やむを得ない事由」というのは比較的厳しい判断基準であって(例:氏の変更,戸籍法第107条),今回の手続における私の意思表示は,どちらかと言うとせいぜい「正当な事由」(例:名の変更,戸籍法第107条2項)程度の堅さに近いのではないか,という気がします.

 

ジョグジャカルタ原則においては「法の下に承認される権利(第3原則)」が明記され,そこには

国家は、
(中略)
(c)国家の発給する出生証明書や旅券も含めた個人の性別を表記するあらゆる身分証明書や文書に、個人の自己規定された性同一性が反映されるようあらゆる立法的、行政的措置を講じる。

と述べられています.
今回の行政対応事例は,立法的措置の裏付けを十分伴っているかはともかく,実際上の取り扱いとして「個人の自己規定された性同一性が反映されるよう」との要求に,一定の肯定的な答を出した形である,と認識されます.

という訳で,ジョグジャカルタ原則に述べられている通り,「当事者本人が性別欄の非表示を求めれば,その個人意思が尊重される形で公的書面が作成される」事は,こと健康保険証においては相応に確保されている事が分かりましたよ,という御報告でした.

 

特に当事者の方など,もし「実例(先例)」として参照したい,等の必要がありましたら,より詳細な事情は個別にお問い合わせ頂ければ可能な限り御対応したい所存です.素朴な主観本音では「保険証現物の写真画像を示して紹介」したい程度には喜ばしい事例かと思っておるのですが(笑),さすがに公的書面の取り扱いに際してはひとまず一旦留意を払っておく次第です.

 

ジョグジャカルタ原則(英語原文)
https://www.icj.org/yogyakarta-principles/

見やすい日本語訳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E5%8E%9F%E5%89%87

日本国憲法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

Share

日記:長生きをすべきかどうか

[日頃考えている問題意識を共有に供するべく記事の一として書き付け.]

ここ最近,「真っ直ぐな」人(私から見える限りで)と多くお目に掛かる機会を経て,私が進んできて・進もうとしている先には「道なんて無い」のではないか,とあらためて思うようになりました.
いや別に,あるいはそもそも原理的に誰しも(特に「将来へ向かった既定の」)道なんて無いのかもしれませんが,こと私自身の場合には,「進もうとしたら道が無かった」記憶も数有るな,と思い出しつつ.

「道が無かったからつくる」まではよくある…というかごく一般論の範疇と思うのですが,ではその「わざわざ道をつくった事」に一体何の意味があるのか,と確認してみようとすると,今一つ分からなくなったりもします.
私自身が爾後再度通るような道ならいいのですが,実際には私そのものは「先へ進んでいる」がゆえに二度と通らない道もあったりする訳でして,そうすると「後の誰かが使うのか」or「空前絶後」なのではないか,という展望が浮かびます.自分で嬉しいかどうかもさる事ながら,それは果たして世界の合計値をより豊富(better)にしているのか??という課題設問が続きます.

 

他方で,私の計算コスト(往々にして「道をつくる」際にも費消される)は結構甚大で,現代最先端の人類の文明の知見成果の上にあって初めて成り立つ代物であろう事も,まず間違いありません.米を作るどころか炊く事さえコンビニに置いとくまでやらせた方が早いと思いますし(物流トレーラーを2両連結にする法改正を経てまでなお),近くを通りかかった人に「代わりにトイレ行ってきておいてくれませんか」と頼んでしまう程度には,自分の身体に関してすら認識が「外側のどっか」感否めない有様です.

「単騎」で使う代物ではない,という事くらいまでは,おおよそ分かっている認識です.それこそ小学生の頃から「他の人がやっている事はやらない,なぜなら自分がやるまでもなく誰かがやるから」と意識していて,当然のバーターとして「だからこそ,凡人並みの事をやっている世界中の他者各位に対しては,本質的に依存しているという意味で頭が上がらない」も金科玉条として当時から明確に有りました.当時ってもはや人生時間の前半ですが,今なおその原則は本質的に大差無い程度で進んでいるような気もします.

ただ,その際に「コスト分配」をどうすべきか,については,未だマトモな解答を見ていないように思われます.これも往時から気に留まっていた事ではあって,「世界人類文明は野良ブリザムをどう生かすのか」とつねづね不思議に思っていたのですが,率直に言って今も不思議です.比較的近年に複数回の開腹手術・臓器摘出を受けてなお今生き延びている(しかもこんな文章書いたり出来てる)なんて流石に人生の予定に無かった話ですし,あるいは高校時代の同期から「ブリザムは最初に死ぬか,さもなくば最後まで生き延びる人だろうね」と言われていた事もあったのですが,残念ながら最初に死んだのは私ではなかったので,最後まで生き延びる…の?? と言うか最後までって一体どのくらいですか,150年とかになったりしませんか…そんな長生きした奴ってリーマン予想くらいしか例を存じないのですけれども.

Share

今さら「逆転合格」とか言っている人へ

センター試験が終わってから自己採点結果や予備校発表の予想平均点をにらみつつ此処を閲覧している人を想定して書いておきます.どうせ終了後まで仕事で居ない可能性あるので(苦笑)

 

拙著をはじめとする筆者の教育経歴の中でも「逆転合格」というキーワードは頻繁に(かつ意図的に)出てきているのは御承知の通りですが,ことセンター試験という「本番の一つ」が終わって結果が出た段階で,今更のように「逆転」と言い始める人に対しては,従前の認識覚悟のほどをあらためたく物申したい.

特に,センター試験が終わった自己採点までやって(あるいは試験開始以降,全日程終了時点までに)初めて「予期していた点数に足りない」と思った人などは,先ず直ちにそのヌルさというか中途半端さを反省する事を強くオススメします.そうでもないと「この先」がますます危なくなるからです.

どういう事かと言うと,センター試験で「欲しかった得点」に実際の自己採点結果が足りない,という事は,余程その得点目標計画自体が画餅であったか,さもなくば得点を万全に確保する為の事前対策が不足していた事を意味するからです.どちらにしても,得点で測定される大学入試という「相当地に足の着いた」制度に乗って取り組む立場としては,意識の霞み具合として問題外な程度です.

 

また,センター試験の事前・事後にかかわらず,そもそも「逆転合格」という事自体が決して順風満帆な行き方でない事も,試験に取り組む当事者及び関係者の総員が,元来理解しておくべき事です.
なぜなら,「逆転」という成果を挙げる為には,大まかに2通りしか算段がなく:「紙一重のところで『勝つ』側に回る」か,「入試本番でだけ得点が『暴騰』する」か,のいずれかだからです.

そして,今しがたセンター試験が終わって,「紙一重」で勝つ筋が見えなくなった人へ(この記事の読者の多数割合を占めると思われますので):

あなたは今から「残る本番回で暴騰」を目指そうとしている訳ですが,その前段として「人が変わる」覚悟は出来ていますでしょうか?

筆者の教え子でも,センター試験後に「逆転合格」の形で所期の目標成果を得た受験生は多数居ますが,その成果を出した人達は全員が「人格的に根底から変わった」と指導者視点からさえ見える程度です.

 

「人格を変えるべきかどうか」自体については職責上敢えてpushでは申しませんが,こと此のタイミングから逆転合格を望む場合,技術的に必要となる水準が「人格変革」をも求められる程度に及ぶ,という旨は,職務経験を含めた知見の限りで申し伝えておきます.

なお,今お手元にある青チャートやネクステが其の技術的水準に適するかはケースバイケースですが,センター試験でハズして逆転とか言い始める人の大半は,そんなものをマトモに使いこなす学力状態にすら達していないと思われます.先ず「自己採点7割台だった科目でコンスタント9割を目指すには何が足りなかったのか」あたりから再検討するのが適正ではないでしょうか.

Share

「頭がよくなる」目論見の読者を釣って,日本の教育を根底から激変させる深慮遠謀(個人感想)

師匠・苫米地英人博士の近著「苫米地式 聴くだけで頭がよくなるCDブック」 (https://www.amazon.co.jp/dp/4781614930 )の内容が,「教育」について簡潔に触れていながら言及内容の意義は誠に豊富なので,先ず教育関係者の方へは推奨申します(※当記事筆者が念頭に置いている知識水準に,もし読者の知識が不足する場合には,各自補って下さい).既に「著者名」ベースで購入した方の中には「楽曲」側が概ね高評のようですが,成書としての本編内容も相当の「使い倒しよう意義」は有ると存じますので,念の為御指摘.

さて,上記紹介書の中で「全く素晴らしい部分」は満額字面通り丁寧に読んで頂くとして,こと「日本の大学入試制度」に関する言及に際しては,異論…と言うよりは「別の観点立場からの異見」として,申しておきたい事が幾つか有ります.
一応私自身,「大学系研究機関在籍経験者」かつ「受験産業で『攻略』側の指導者」という立場として、十数年来のキャリアを有するプロではあるので,その見識を踏まえての話です.

端的には,「現行制度もよりマシな使い方は可能」と「今(特に公的セクターで)考え進められている『制度改善』の算段にも,抜け穴と言うかクラックの余地は有る」という事なのですが,大局的観点として整合した意見を述べるには元々の論題規模が大きい事と,グローバルネット上で無制限に公言するには厳しいかと思われる内容もが多々有ります故,現在これらの情報を必要な方へお届けする算段を含めて思案設計中です.追って告知予定ですので,続報に御期待下さいませ.

 

なお御待機頂いている皆さまには,先に苫米地博士の近日御意見を紹介します:正座して読むに不足は無い内容存分と思います.

https://twitter.com/DrTomabechi/status/807007008461189120
>日本の課程博士は微妙だけど

…誠に申し訳ございません.
およそ「教育」に関係する方の全てに,此の御一言から立ち返って,現在の御自分の身の振りと申しますか,立場職務からミッションからゴールに至るまで,あらためて考えるきっかけの一助として頂ければ幸いです.

Share

自然言語に内在する性差別

英語の「単数形they」に未だ馴染めないブリザムです.”They is…”とかどうにも気持ち悪くて使えずにおりますところ,納得いく説明の出来る方があれば是非御教示頂きたい.

過日も,超優秀な通訳さん(光栄な事に知り合い)に「she」と訳されて「頼むからitにしてくれよ」と反射的にキレそうになった程度には相変わらず大人気無かったのですが(日本語がほぼ通じない主賓に国連人権理事会の論題を伝える余力は無いと踏んでギリギリ黙った分だけ成長したとも言えるのかもしれませんが),ドイツ語の猫が「原則暫定女性」扱い(die Katze)である事と並べて見て「猫並みの待遇を受けた」と思うと,それはそれで中々悪くない気もします:猫は図書館のセキュリティを担ってきた文化史もあるそうなので,其の意味では合っていると言えなくもないので(笑).

そのドイツ語には「敬体としての二人称Sie」(三人称複数形と同じ形)という御苦労様な方法技術が確立されているので,まだしも「頑張れ」という気になれようものですが,他方で実は,当サイトでも使っている日本語だって,全く以て対岸の火事ではありません.

…既に思い当たる方もあるかもしれませんが,日本語の場合はむしろ「一人称」が問題になる事の方が頻発です.
これは「第三者」の話題を介さない,「自分と相手(You & I)だけ」の会話場面でも発生する事情であるゆえに,深刻さの度合としても一段以上重大と思われる由です.勿論,一度でも「経験」した事のある方なら,まず異論は無いかと存じます.

私が知る限りで,日本語一人称で情報伝達上最速なのは「俺(オレ)」です.これはおそらく発音の問題で,文字数(音数)的に同じである「僕(ボク)」よりも大抵の人は速く喋れます.無論,「わたし」は5割増なので最初から枠外です(ちなみに「私」の読み方は「わたくし」が正式のはずですが,発音の長さ云々以前に「堅過ぎて怖い」という理由から,通常の会話ではほぼ忌避されていると思われます).
そして御承知の通り,「俺」や「僕」はおおよそ男性用の位置付けとなっています.一昔前には,地方語で「オラ」が女性でも使える事になっていたという談も聞き及んでいますが,口語でも「標準語」の地位にまでは及ばなかったので,実質望み薄でしょう.あるいはより近年で,元来女性用の「ウチ」が全国区に広まってきた経緯もありますが,こちらも公な標準語の地位を得るには遠い気がします.…と言うか,微妙に「オレ」より遅いので,結局は敢えて選ぶ有難味に欠けます.

此の事情は,「女性(あるいは『男性以外』)にのみ口語一人称のコストが毎回5割増で乗る」事を意味します.それが証拠に,男性で平常時に「私」や「僕」を使っている人を,酒の卓で重要な話題(従って情報伝達速度の最適化需要が生じる)に乗せると,殆どの場合に一人称が「俺」に変化します.
換言すれば,こういうタイプの反応を見せる人は「内部処理上の一人称」が「俺」になっている,という事です.

内部処理(脳内計算速度)においても「5割増のコスト」が乗っているという事になると,特に脳内処理で音声形態を使っている人の場合,単位時間当りに扱える情報量自体もが,実は不利になっている可能性が高まります.
ちなみに私は個人的経験として,初めて英語に触れた際「一人称が”I”一択」であると知って「なんて便利な言語なんだ」と驚嘆した事を,今でも憶えています.と言うか,往時私の「内部一人称」は「オレ」だったはず…なのですが,そこを正直にいったら小学校で散々な目に遭ったので,以来久しく「利害が重大に絡む酒の卓」ですら使っていません.「男装かつ一人称俺」or「女装かつ一人称私」の二択は無理だった,という事です.今にして言える説明ながら.

「性差別が自己主張時(一人称)に乗る」日本語と,「当事者外の場面(三人称)で差別を受ける」印欧語とで,いずれがマシなのか? 私は今なお図りかねています.近年(おおよそ前世紀末頃から,でしょうか)では,匿名掲示板やネットワークゲーム等を介してきたと見られる「総員が一人称は原則『俺』に固定される(標準仕様)」流儀を,オフライン環境に言わば「持ち帰る」形で使い始めた女性に出会う事も珍しくない程度に経験していますが,それにしても「大っぴらな」状況で使うにはなお無理がある感を禁じ得ません.

余談ながら,日本語の二人称(常体)で最速なのは多分「君(キミ)」で,使用経験の限りでは「御前(オマエ)」を上回ります.「おまえ」が「あなた」より速い事を知っている人は少なくないかと存じますが(殊に女性),一応御参考までに.しかし敬体は「貴兄」が男性用なので(「貴殿」は丁寧語ではあるかもしれないが敬体ではないと思われます),性別不問の「汎用化」は模索中であります.

Share