「みんなと一緒に卒業したい」は学歴詐取ではないのか

京都府立朱雀高校で,妊娠中の高校3年生が体育の成績評価の結果として履修認定(単位取得)を得られず,卒業が出来なくなる見込みとの事で,世論が過熱するのみならず各行政当局がコメントを出す事態となっています.

状況が詳述されている新聞記事の写真(直下画像,https://pbs.twimg.com/media/Ck-WSzNWgAMIZWk.jpg:large)がTwitterに上がっていたのですが,出典が不明なので,やむを得ず写真を添付した元ツイートのアドレス(https://twitter.com/kuro_yua/status/742977752425435137)と共に紹介します:なお,当該ツイートの意見内容自体に関しては当サイト記事では差し当り言及しません.
新聞記事紹介写真ツイート

 

各報道記事を概観すると,高校現場の教員の対応・言及内容にも中々問題が有ったようで,人道的な観点から論じられる向きも大きいと見えます.
http://www.sankei.com/west/news/160615/wst1606150040-n1.html
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20160615000155
http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/15/kyoto-pregnant-jk_n_10471830.html
ですが,妊娠出産等に係る人権保護の観点と,高等学校という公教育制度における履修認定=「公的ラベルの授与」の基準判断とが,混同して論じられているように見受けられる現状に対しては,率直に違和感を禁じ得ません.

報道によれば,本件では高校が「生徒本人の意向を無視して休学を勧めた」事が槍玉に上げられている模様ですが,そもそも休学を択ばずとも,当該生徒は成績評価に基づいて卒業要件を満たせず,退学等をしなければ「留年(原級留置)」が事実上確定していた状況のはずです.ここで,もし”配慮”によって卒業を認めてしまったとすれば,「本来は卒業基準を満たしていない生徒に,高等学校卒業の認定を与える」という事になる訳で,公教育(1条校)の制度とは何だったのか,との疑念に対しては,何らの正当性も説明されていません.

 

妊娠・出産ないし前後の過程(”コスト”)に際して,当事者に医学的あるいは経済的支援を提供するという事なら,まだしも意義は分かりますし,実際社会制度上もその算段は設けられています.ですが,「公教育課程の履修歴ラベルに関して『無いものを与える』」事に,果たして社会的正当性は認められうるのでしょうか.

 

本件の妊娠者は順当にいけば数か月後にも「親」になる訳で,それ自体は当事者・周囲関係者の方々を応援したく思いますが,当記事の表題で述べたように,敢えて厳しく言えば「学歴詐取の企図」とも受け取れかねない意向を表明している人が,親という「次世代の教育に深く関与する立場」になろうとしている状況に対しては,非常な懸念を覚えます.

 

あるいは,もっと根源的なところまで踏み込むなら,そもそも「みんなと一緒に」などと言う必要性が生じる”世間の空気”こそが問題の本質なのかもしれませんが,その方向性を護ろうとしたところで,どう足掻いても「泥船」の未来しか思い浮かびません.現在の親世代(本件の妊娠中生徒を含む)が「みんなと一緒に卒業出来る,配慮の行き届いた公教育制度」を守り勝ち得た結果として,その次世代にまでも「みんなと一緒」の空気を守るべき社会的精神圧力が継承されてしまう事になるとすれば,それは未来に対する責任の持ち方として,大分罪深い話なのではないでしょうか.
更に端的な言い方を重ねるなら,妊娠・出産においては「みんなと一緒」な事の方がむしろ少ないくらいの筈ですが(妊娠・出産の経験を持たない私ですら,体感的に納得出来る程度の話です:勿論,経験者達から直接の話を聞いている知識は含めています),当事者はその点をどう思っていて,同世代・歳上の世代・そして何よりも次世代に対して,その認識をどう伝えていくつもりなのでしょうか.

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興味はあるけど専門家になるつもりのない初学者は,どういう立場をとればいいのか

高木浩光先生のブログを目前にして正座してみたものの,先ず情報の物量に呆然としているブリザムです.サイバーテクノロジーと法制の両方に関心を持っている中途半端な初学者で,別段技術的に専門家になるつもりは今のところまず無いのですが,さりとて「何も知らないままやり過ごす訳にはいかないだろう」と感じながらここ何年か経っていて,積んでいる本も目の前だけで数十冊程度はあります.
先日,そんな本の山を眺めながら読書リストを確認して,年間通読冊数がだいぶ減っていて「やっぱり」と思った…のですが,その後で冷静になって電磁的文書の読字数を概算してみたら,日々の通読量合計はむしろ増えており,逆の意味で頭を抱えました;道理でしょっちゅう画面を見ながら「乗り物酔い」の状態を感じる訳です.

ここで,苫米地英人博士なら「専門家が読んできた(であろう)文献を全部読んでしまえ」と言うところでしょうが(既刊所載意見の通り),それを額面通りにやってみて,乗り物酔いを越えたところで往々にして「寝落ち」するのが半ば常態化していたところ,寝落ちを前提に生活を組み立てていた金子勇さんが早世された事を反省材料として,ようやく身体健康とのバランス感覚にまで意識が向きつつある…というのが,ごく最近の私の有様です.

勿論,これは学者としては満額の答えというか,ごく当たり前の大前提であって,「そうでない人が声を出す事はそもそも間違っていて,世界にノイズを提供しているに過ぎない」との原則認識くらいは分かります.かく言う私自身,「既出の議論を何度も説明し直すのはダルい」と思うから拙著や当サイト記事を書き貯めて公開している訳で,学歴のような知識到達水準で相手に「足切り」を掛ける判断なども,理論的には何ら間違っていないと思います.

他方で,実際現世的にはおおよそ「浅学無知を全く悪いと思わない,『鈍感力』に長けたノイズ発生器」の方が,まずもって優位である事も否めません.単純に「早いから有利」という事なのかもしれませんが,それをあらためて「不正確だけど早い」と言い直してみると,「幾ら何でもそりゃウソだろう」と直感的に思う訳です.

 

で,「それでは何を選択するのか」という問題意識が立つ事になります.こういう素朴な疑問を「なんとか話が通じる相手」のところへもっていくと,「あらゆる分野の専門家というのは居ない」と,これまたほぼ満額と思われる回答を頂いたりして,大抵は正座しながら挨拶してその日は終わるのですが,「では,あらゆる分野には専門家orノイズしか居ないのか,その『あいだ』にはどうやって歩み進めればよいのか」ともう一度食い下がると,往々にして方法論が見当らないといった状況に陥ります.
ちなみに,私が「専門」の看板を掲げている”教育”分野というのは,あくまでも正答(および満点)が存在しているが故に「やり込み」が有効であるに過ぎず,換言すれば「時間座標的には何も進んでいない」事に相違ありません(だからこそ,私の職務提供においては「若年者優遇」との大義名分の下に「未来時間期待値による足切り」を掛けている訳です).

 

「積んだ本を読むより積み増すスピードの方が速い」事を示す雑な試算モデルを作って大変萎ゆる思いをしたのは,もう大分昔だった気もするのですが,毎晩検索結果一覧から開いたタブを百ページくらい読んでいる内にブラウザがクラッシュして,ふと「我ながら本音は未だ懲りてないな」と思ったりもする次第です.
同期の計算機科学者から「お前さんはフレーム問題と戦っているのか」と言われたのもその大分前だったはずですが,そういえば最近は,横断歩道の渡り方とか電車の乗り方とかが,段々分からなくなってきた感もあります;5歳くらいの頃はむしろ「横断歩道の渡り方を学んで教える」事などをやっていた記憶があるのですけれども…「学習の効果で判断が鈍くなりました」なんて,額面通りには信じたくない話ですが??

 

見渡す限りの博士達も,さすがにそこまで「爆死」はしていないんじゃないか…と思うより前に,「どうやって相互認識しているのか」が気になって,共通了解とか呼ばれるプロトコルの成り立ちを模索し始めて今に至るのですが,つい直近も2択のトイレに阻まれて「壁を蹴っても仕方無いしなぁ」と佇んでいる中で,他の人達がおおよそそこで迷わない(らしい)様子を眺めて,理由が謎で不可解な気持ちになりました.もっとも,同じトイレの前で「50人分」もずっと見張っていた事はないので,確率的に出くわしていないだけかもしれませんけれど.

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性別欄が「2択」だと困る人は2%も居る(?)

昨年4月に電通の調査で「LGBT該当者は7.6%」という結果が出て,今更ながらに「やっぱり何度見ても『LGBT』って雑な括りだよなぁ」と思っていたのですが,直近の博報堂グループによる調査結果では,セクシュアルマイノリティの更に「内訳」までもが詳述されています:

博報堂DYグループの株式会社LGBT総合研究所、6月1日からのサービス開始にあたり LGBTをはじめとするセクシャルマイノリティの意識調査を実施
http://www.hakuhodo.co.jp/archives/newsrelease/27983
http://www.hakuhodo.co.jp/uploads/2016/05/HDYnews0601.pdf

 

報告書本文の解説では「その他のセクシャルマイノリティに該当する人は約2.1%」と述べられていますが,この数値の内にはAセクシャル(0.73%)が含まれており,Aセクシャルの定義は性的指向上の分類に基づくものですから,「性自認(自身の性別認識)が”マイナー”≒2択だと困る」状態の人とは必ずしも同義ではありません.

そして,Aセクシャルに端的に該当する人以外の「その他のセクシャルマイノリティ」は,今回調査においても一括りなので,果たしてその全員が「性自認に特殊性を有する」などと結論して良いのかは,正直に言えば不明です.

ですが,ひとまずは「何がしかの統計数値」を出しておきたいので,ここでは大まかに,残りの上述「その他」1.40%の人々を,「性別に何らかの課題を自認している人」と見なしてみる事にしましょう.

 

他方で,今回調査では,トランスジェンダーが「0.47%」と,先年電通調査よりも明確に「”T”の実態」が見える形となっています.期待値で言うと「中学校の同学年200人の内に1人」程度,という事になります.個人的には経験を踏まえて「直感よりも若干少ない」気もするのですが,日本国内法及びそれに関連する医学上の定義に基づく「性同一性障害(GID)」に該当する(or該当可能性がある)人の割合,という意味で理解すれば,まぁ尤もらしい数値ではあろうかと思える程度です.

これと対比して,上述の「(トランスジェンダー以外で)性別に何らかの課題を自認している人」1.40%は,中学校の同学年200人に期待値で3人近く居る訳です.
(あるいは,トランスジェンダー・性同一性障害者を含めて「性別に何らかの課題を自認している人」全体が200人中4人で,その内GIDに該当するのは1人,他の3人は「それ以外」と換言してみると,より直感的に分かる方もあるでしょうか.)

 

…なんだ,意外と多いじゃないですか.

 

「同学年人口比2%」というのは,おおよそ「偏差値70以上」に相当する訳で(別に何の測定数値が「上位」って話でもありませんが),その程度なら「学年内の成績優秀者」と存在遭遇確率は同じです.小中学校の同期で「成績優秀者」って,目立つ事こそあるでしょうが,別にそこまで「珍しい」とまでは感じられないのではないでしょうか(「2%」という数値のレアリティからすれば,本来は逆に「それほど頻出でもない」と一言注意併記しておくべきでしょうけれど).
…それと同程度の割合で,「性自認において突出している」人もが同学年に居る(はず:期待値としては)のです.わりとだいぶ「珍しくない」気がしてきませんか??

 

尤も,こと「性自認」に関する当事者の認識は,往々にして外観上は判断のつきようが無い場合もあります.理由として「わざわざ表明する機会・方法が無い」とか「社会的差別や”制裁”が怖い」等のいずれのファクターがどれだけ効いているのかは未知ですが,例えばそれこそ私のように「公立学校で制服が性別込みで指定されているのは違憲だと思うので着ません」などとロコツに”戦う”人の割合は,さすがに2%も居ないように思われます(私自身が小学校~高校に在籍していたのは大分昔の事ではありますが,おそらく現代でもそう簡単に「ハードルが下がった」訳ではないでしょう).
より仔細な数字を一応述べれば:高校の同学年400人中では私以外に見当たらず,1つ下の学年でも1人見掛けた限りでした(高校在籍当時は名簿と顔写真を日々チェックして暗記していたので,少なくとも網羅精度に限れば「ひとまずマシな資料」ではあるはずです).そうすると確率的には0.25%で,上述した今回博報堂調査から導出される数値と比較すれば,「残りの当事者の内で9割近くは隠れている」と見る事も出来ます.
存在比0.25%だと「偏差値78」相当になる訳でして,これではまぁ「およそ出会わない」と言われても致し方無いかな,という数値です.但し其の背景事情として,「当事者の8~9割は潜んでいる」(と,統計数値の概算から見て取れる:上述)という「色眼鏡」が,傍目から認識し難いところで既に掛かっている,という状況は,今一歩広く認識されたいものだと思います.

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