前記事の続きです.引き続き,筆者の「社会的所属」歴を復習しておきます:
●幼稚園(2年保育)
年中:女子
年長:女子
●小学校
1年生:女子
2年生:女子→追放
3年生:男子
4年生:男子
5年生:人外
6年生:人外
●中学校
1年生:男子
2年生:男子
3年生:男子
●高校
1年生:男子
2年生:男子→墜落
3年生:東大組牽引/不登校
「第1志望に落ちたので仕方無く県立トップの高校に入学した」当初は,「何が悲しうてこんな奴らと机を並べて勉強せにゃならんのか」という態度を決め込み,高校1年次最初の1学期間は,同級生と殆ど会話もしませんでした.無論,交友関係が出来るはずもありません(中学3年次同級生のゲーマー仲間は他の職業科高校へ,知的障害生は地元企業へ就職となっていました).
中3次の高校入試模試で「満点から1点落とすと順位が27位まで下がる」事を経験していた筆者は,この高校で「とりあえず,この27位を防衛出来ればいいかな」と思っていました.
小学3年次から既習だった化学は1学期中間試験で当然の如く満点,しかし数学(試験2回)は難関でした.さすが在りし日の「理系の厚木」.
校内実力テスト(いわゆる校内模試)ではちょうど27位(/学年398人)で,「まぁ防衛したかな」の結果でした.ちなみに英語は1位で,「数学の厚高生は英語が弱点」と見切りました.英語の偏差値が80を突破するのは翌年度の事です.
高校でも当然の如く制服は着ておらず,3年次には「厚高は私服登校OKになったのですか?」と生徒会に保護者から問い合わせがあったそうです(知人の生徒会役員からこぼされました).
相変わらずトイレは男子だし着替えはしない(体育も私服)訳ですが,なんか最初から目立ってたらしく,入学者説明会(3/18)には上級生が既に「あいつが入学してくるらしいぞ」「学附面接で落ちたんだってー」と噂していました.(※実際には東京学芸大学附属高校の合否は「ほぼ学科筆記で決まっている」そうで,そうすると筆者は「数学があと小問2つ解けていれば受かっていた」程度だったという事になります.)
また,学年教諭陣の間で,「生徒指導委員会」「美化委員会」等と同等の位置付けで「ブリザム対策委員会」が設けられていた事が,3年次に他クラスでバラされました.理由は,「あいつはボコられるのではないか」という事が主眼だったようで,生徒指導部の教諭から身に覚えのない呼び出しを受けて「最近何か無かったか」と頻繁に訊かれたりしていました.
高校1年次1学期の内申点は,学年5位(10段階評価13科目で113/130点)でした.ここでも半端に優位に立ってしまった事が,後に筆者の運命を分けていきます.
初回の進路志望調査では,祖父(町医者でした)の後を継ぐ事を考えて「東京医科歯科大学」と書きました;「東大理三は流石にキツいだろう」くらいの感覚です.
1年次の文化祭では,クラス代表がなかなか決まらず,もう1つの責任者ポストであった「会計長」を筆者が先に引き受けて,クラス代表者は審議継続,という形でスタートしました.
責任者集会に早目に集合して待っていると,入学当初から教室の角でゲームの話をしていた同級生が,学ランを着てやって来ました.
「君なの?」
これが,私が高校でクラスメイトと話した最初の発話でした.
このクラス代表とクラス全体の不仲や,先輩も含めた学園祭実行委員会での態度なども大概でしたが,筆者の居たクラスでは,彼がラジオのクイズに全問正解して「クラスに賞金10万円」を獲得したので,最終的に「文化祭で赤字を出したのに全員に2322円が分配される」という,珍事態になりました.このとき,割り切れずに余った6円は担任に謹呈したのですが,この担任は後(我々の卒業後)に痴漢(手鏡スカート下覗き)で捕まり,余罪100件で免職となりました…;同期の間では今でも「黒歴史」と呼ばれております.
高校2年次ではクラスがだいぶ分かれて,先の1年次クラス代表とも別クラスとなりました.ところが,彼は1年次末の「学園祭審議委員会」(来年度の実行委員会へ向けて企画を立てる委員会)に呼ばれてバカ正直に委員となっており(呼ばれて行った1年生はたった5人でした),しかも「一般生徒質疑応答会」に出席したのは筆者一人とあって,翌年度(高校2年次)の「高校全体学園祭実行委員会」は結局,この審議委員会と,巻き添えで引っ張って来られた筆者のようなポジションの人材で構成される事になります.ちなみに1年次のクラス代表の彼は,翌年度には学園祭全体の実行委員長になりました(苦笑).
という訳で,高校2年次はおおよそ学園祭実行委員会の思い出で埋め尽くされましたが,そんな中でも「英語でトップを取ったら数学のトップを紹介してもらった」などのエピソードもありました.彼らを集めて,後に筆者は「東大組」を組閣する事となります.この時のスローガンは「我が校から東大10人」でした(直近年の最高は9人,年によっては3人程度で,2桁には届かない状況が続いていました).
さても,この学園祭総合実行委員会が問題で,内部では「優等生同士の恋愛ごっこ」(分かる人には分かるであろう,稚拙から始める上にエグいやつ)が続いていました.文化祭が終わった翌日,実行委員長は同期の委員と”正式に”交際を始めました.
このとき,筆者は「親友を取られた」と感じた訳ですが,体力的にも「男子部に居る限界」を感じ始めていた事と相俟って,うっかり彼女持ちに惚れ込んでしまいます.筆者の「男子部」生活は,ここであっけなく「墜落」して終わりました.その後,筆者が「男子部」に復帰する事は結局今に至るまでありません.
周囲の女子は(恐らく「勝てる見込みが無い」と分かった上で)「応援」してくれていたりしましたが,当の彼女さん(元委員会同期)との仲だけは険悪で,「私の彼に近付かないで!」まで言われました.もう1,2歩くらいで「上履きに画鋲」どころか「どっちかが相模川に浮かぶ」くらいの空気感でしたが,結局その後筆者は彼から正式にお断りされ,「あまりいじめないでやってくれないか」と言われてしょげる事になります.(なお,彼らは後に結婚し,現在ではお子様もそれなりの歳に育ってきています.)
ここへきて,筆者はようやく「あぁ,女子部の方が包容力は高いんだ」と,初めて認識する事になります.何しろ,小学校後半は「人外」枠でボコられ,中学では「学年首席別格」で性別云々以前の好き勝手をやっていた訳ですから,実質的には「約10年ぶりの女子部復帰」という感じだった次第です.
高校3年次には件の彼と再び同級生となり,もう一人の実行委員会同期(その後も引っ張られて生徒会会計役員になっていた)とも一緒になりました.
しかし,筆者は「受験勉強が忙し過ぎて高校へ通っている暇が無い」という理由で,公立である事をも盾に,出席日数ギリギリまで学校へ行かず,ひたすら自習を続けていました(詳細は以前記事述).
ちなみに,高校2年次の12月には,時の担任(後に教育委員会へ引っ張られて行きました)に個別面談を申し込んで,「もう高校生と大学受験生の『兼業』は疲れました」と相談しています.この時,担任がもし引き留めたら学校を辞めてやろうと思っていたのですが,彼は「もしこれこれの状況になったら,それは君が本校を辞める時だよ」と丁寧に対応してくれたので,筆者は「一応籍を残す」という判断に落ち着いた次第です.
この高3次,理系クラスは43人中女子が5人という有様で,しかも筆者はどうやら女子の学年トップ(後に現役で東大文三に進学)から「ブリザムさんは怖くて話しかけられない」と言われていた,と同級生の女子(なぜか私の髪をショートにする事に3年間固執していました)から聞きました.
そんな訳で,「東大組」の組閣(休日もほとんど模試等で顔を合わせていました)は,実質的に「男子部の再結成」に近い形となっていました.
少し時間を巻き戻して:
高校2年次の9月,進路志望の「暫定確定」期日が迫っていました(往時文理分けは高3のみ).筆者は,「学者(東大理一)」と「医者」の二択で迷った挙句決めきれず,結局学園祭実行委員長だった彼にひっそり相談しました.
すると,彼は「お前を医者にしておくのはもったいない」と言いました.
「筆者を医者にするとヤバい,絶対やっちゃいけない生体実験とかやりまくるだろう」は誰でも言うところだったのですが,上述の一言は意外かつ強烈で,これを以て筆者の「学者ルート」が決まる事になりました.
その後も多々有るのですが,結局筆者は東京大学理科一類→理学部数学科→大学院数理科学研究科と進学する事になり,大学では体育の授業カードで「女」欄にチェックを入れなければ女子扱いにならない(往時),という事情もあって,ジェンダー方面ではおおよそ困る事はありませんでした(対人関係はともかく).
筆者のアスペルガー障害が判明するのは,大分後になって学部4年次の事です.自閉症スペクトラム指数(Autism Quotient)は46/50と,かなり重度でした(発達障害の判定基準は33/50,健常者の平均は21/50).
という訳で,以上3記事にわたって「いじめ」と「学力」と「発達障害」と「ジェンダー(性的少数者)」に関して,筆者の体験を追想しながら述べてきた訳ですが,ざっくりまとめるならばやはり「アスペルガー症候群該当者は可能なら学力上位(更に言うなら東大)を目指すと良い」「いじめは学力の威力で一掃出来る」「性別の壁はぶち破れない事はないが,セクシュアルマイノリティは暫定『女子部』に置いといた方がマルい」といったところでしょうか.