健康保険証の表面性別欄は随時「不記載・非公開」とする事が可能である

先日,健康保険被保険者証の再交付を申請したのですが,その際に「性別欄につき非表示を求める」旨の意思表示をあわせて申請書を提出したところ,当該保険証の表面記載性別欄が「裏面参照」のみの表示となり,実質的に「保険証の表面に性別を明記しない」形が実現した事となりました.

この取り扱い自体は,2012年9月21日厚生労働省「被保険者証の性別表記について」(http://kouseikyoku.mhlw.go.jp/kyushu/gyomu/gyomu/hoken_kikan/tsuchi/documents/tsuchi_376.pdf)以降,「被保険者から被保険者証の表面に戸籍上の性別を記載してほしくない旨の申し出があり,やむを得ない理由があると保険者が判断した場合には,被保険者証の表面ではなく裏面に戸籍上の性別を記載できるようにする」という形で,既に実現しているものです.

しかし今回は,必ずしも 「やむを得ない理由」でなくとも,正当な理由として認められれば上記の通り「裏面参照」の取り扱いを受ける事は可能である(特に,例えば「性同一性障害のため」といった具体的事情の疎明を必要としない)と認識される実例でしたので,先ずその旨の御報告を兼ねて今回記事で紹介します.

 

今回私が提出していたのは「健康保険被保険者証再交付申請書」なのですが(理由は単に従前の保険証を紛失した為),新規交付申請時においても原則は同様であろうと思われます.

上記申請手続において,性別欄に関し留意した点は次の通りです:

●「再交付が必要な方」の記載欄「氏名/生年月日/性別/再交付の理由」の4項目の内,「性別」欄のチェックボックス「□男 □女」のいずれにも記入をせず,空欄のまま提出.

●書面下部の「備考」欄に,次の通り,性別を公表しない旨の意思表示を明記:

性別欄につき非表示を求めます.
根拠:国際連合人権理事会「性的指向並びに性同一性に関連した国際人権法の適用上のジョグジャカルタ原則」(2007年),日本国憲法第98条2項

ちなみに,健康保険証(再)交付申請の窓口においては,申請書に「性別欄表面不記載を求める理由」の記載を要望する旨の案内がなされていたところ,私は「理由というものに該当するかは分からないが,根拠法令は有るので当該条文を記載する事は出来る」と口頭で説明し,その通り記入提出して受理された,という流れでした.

 

上述の厚生労働省回答に基づく取り扱いでは「やむを得ない理由があると保険者が判断した場合」となっていますが,私の場合は「確立した国際法規であって,日本国も憲法に基づき遵守すべきもの」を主張(意思表示)の根拠として提示したのみであり,性別欄を非公開とすべき旨を求める「理由」自体については,それすら表明していない,という認識です.

果たして私の今回事例が,厚生労働省なり,保険者である全国健康保険協会(協会けんぽ)なり同協会都道府県支部なりにおいて「やむを得ない」と認められたのかは不明ですが,他の事例における法制の経験感覚に比する限りでは,そこまで厳しい判断を経ている感はあまり見受けられません.存じる限りで,「やむを得ない事由」というのは比較的厳しい判断基準であって(例:氏の変更,戸籍法第107条),今回の手続における私の意思表示は,どちらかと言うとせいぜい「正当な事由」(例:名の変更,戸籍法第107条2項)程度の堅さに近いのではないか,という気がします.

 

ジョグジャカルタ原則においては「法の下に承認される権利(第3原則)」が明記され,そこには

国家は、
(中略)
(c)国家の発給する出生証明書や旅券も含めた個人の性別を表記するあらゆる身分証明書や文書に、個人の自己規定された性同一性が反映されるようあらゆる立法的、行政的措置を講じる。

と述べられています.
今回の行政対応事例は,立法的措置の裏付けを十分伴っているかはともかく,実際上の取り扱いとして「個人の自己規定された性同一性が反映されるよう」との要求に,一定の肯定的な答を出した形である,と認識されます.

という訳で,ジョグジャカルタ原則に述べられている通り,「当事者本人が性別欄の非表示を求めれば,その個人意思が尊重される形で公的書面が作成される」事は,こと健康保険証においては相応に確保されている事が分かりましたよ,という御報告でした.

 

特に当事者の方など,もし「実例(先例)」として参照したい,等の必要がありましたら,より詳細な事情は個別にお問い合わせ頂ければ可能な限り御対応したい所存です.素朴な主観本音では「保険証現物の写真画像を示して紹介」したい程度には喜ばしい事例かと思っておるのですが(笑),さすがに公的書面の取り扱いに際してはひとまず一旦留意を払っておく次第です.

 

ジョグジャカルタ原則(英語原文)
https://www.icj.org/yogyakarta-principles/

見やすい日本語訳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%BF%E5%8E%9F%E5%89%87

日本国憲法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

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日記:長生きをすべきかどうか

[日頃考えている問題意識を共有に供するべく記事の一として書き付け.]

ここ最近,「真っ直ぐな」人(私から見える限りで)と多くお目に掛かる機会を経て,私が進んできて・進もうとしている先には「道なんて無い」のではないか,とあらためて思うようになりました.
いや別に,あるいはそもそも原理的に誰しも(特に「将来へ向かった既定の」)道なんて無いのかもしれませんが,こと私自身の場合には,「進もうとしたら道が無かった」記憶も数有るな,と思い出しつつ.

「道が無かったからつくる」まではよくある…というかごく一般論の範疇と思うのですが,ではその「わざわざ道をつくった事」に一体何の意味があるのか,と確認してみようとすると,今一つ分からなくなったりもします.
私自身が爾後再度通るような道ならいいのですが,実際には私そのものは「先へ進んでいる」がゆえに二度と通らない道もあったりする訳でして,そうすると「後の誰かが使うのか」or「空前絶後」なのではないか,という展望が浮かびます.自分で嬉しいかどうかもさる事ながら,それは果たして世界の合計値をより豊富(better)にしているのか??という課題設問が続きます.

 

他方で,私の計算コスト(往々にして「道をつくる」際にも費消される)は結構甚大で,現代最先端の人類の文明の知見成果の上にあって初めて成り立つ代物であろう事も,まず間違いありません.米を作るどころか炊く事さえコンビニに置いとくまでやらせた方が早いと思いますし(物流トレーラーを2両連結にする法改正を経てまでなお),近くを通りかかった人に「代わりにトイレ行ってきておいてくれませんか」と頼んでしまう程度には,自分の身体に関してすら認識が「外側のどっか」感否めない有様です.

「単騎」で使う代物ではない,という事くらいまでは,おおよそ分かっている認識です.それこそ小学生の頃から「他の人がやっている事はやらない,なぜなら自分がやるまでもなく誰かがやるから」と意識していて,当然のバーターとして「だからこそ,凡人並みの事をやっている世界中の他者各位に対しては,本質的に依存しているという意味で頭が上がらない」も金科玉条として当時から明確に有りました.当時ってもはや人生時間の前半ですが,今なおその原則は本質的に大差無い程度で進んでいるような気もします.

ただ,その際に「コスト分配」をどうすべきか,については,未だマトモな解答を見ていないように思われます.これも往時から気に留まっていた事ではあって,「世界人類文明は野良ブリザムをどう生かすのか」とつねづね不思議に思っていたのですが,率直に言って今も不思議です.比較的近年に複数回の開腹手術・臓器摘出を受けてなお今生き延びている(しかもこんな文章書いたり出来てる)なんて流石に人生の予定に無かった話ですし,あるいは高校時代の同期から「ブリザムは最初に死ぬか,さもなくば最後まで生き延びる人だろうね」と言われていた事もあったのですが,残念ながら最初に死んだのは私ではなかったので,最後まで生き延びる…の?? と言うか最後までって一体どのくらいですか,150年とかになったりしませんか…そんな長生きした奴ってリーマン予想くらいしか例を存じないのですけれども.

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今さら「逆転合格」とか言っている人へ

センター試験が終わってから自己採点結果や予備校発表の予想平均点をにらみつつ此処を閲覧している人を想定して書いておきます.どうせ終了後まで仕事で居ない可能性あるので(苦笑)

 

拙著をはじめとする筆者の教育経歴の中でも「逆転合格」というキーワードは頻繁に(かつ意図的に)出てきているのは御承知の通りですが,ことセンター試験という「本番の一つ」が終わって結果が出た段階で,今更のように「逆転」と言い始める人に対しては,従前の認識覚悟のほどをあらためたく物申したい.

特に,センター試験が終わった自己採点までやって(あるいは試験開始以降,全日程終了時点までに)初めて「予期していた点数に足りない」と思った人などは,先ず直ちにそのヌルさというか中途半端さを反省する事を強くオススメします.そうでもないと「この先」がますます危なくなるからです.

どういう事かと言うと,センター試験で「欲しかった得点」に実際の自己採点結果が足りない,という事は,余程その得点目標計画自体が画餅であったか,さもなくば得点を万全に確保する為の事前対策が不足していた事を意味するからです.どちらにしても,得点で測定される大学入試という「相当地に足の着いた」制度に乗って取り組む立場としては,意識の霞み具合として問題外な程度です.

 

また,センター試験の事前・事後にかかわらず,そもそも「逆転合格」という事自体が決して順風満帆な行き方でない事も,試験に取り組む当事者及び関係者の総員が,元来理解しておくべき事です.
なぜなら,「逆転」という成果を挙げる為には,大まかに2通りしか算段がなく:「紙一重のところで『勝つ』側に回る」か,「入試本番でだけ得点が『暴騰』する」か,のいずれかだからです.

そして,今しがたセンター試験が終わって,「紙一重」で勝つ筋が見えなくなった人へ(この記事の読者の多数割合を占めると思われますので):

あなたは今から「残る本番回で暴騰」を目指そうとしている訳ですが,その前段として「人が変わる」覚悟は出来ていますでしょうか?

筆者の教え子でも,センター試験後に「逆転合格」の形で所期の目標成果を得た受験生は多数居ますが,その成果を出した人達は全員が「人格的に根底から変わった」と指導者視点からさえ見える程度です.

 

「人格を変えるべきかどうか」自体については職責上敢えてpushでは申しませんが,こと此のタイミングから逆転合格を望む場合,技術的に必要となる水準が「人格変革」をも求められる程度に及ぶ,という旨は,職務経験を含めた知見の限りで申し伝えておきます.

なお,今お手元にある青チャートやネクステが其の技術的水準に適するかはケースバイケースですが,センター試験でハズして逆転とか言い始める人の大半は,そんなものをマトモに使いこなす学力状態にすら達していないと思われます.先ず「自己採点7割台だった科目でコンスタント9割を目指すには何が足りなかったのか」あたりから再検討するのが適正ではないでしょうか.

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