「世界トップクラス」なはずの日本の高校数学・理科は,果たしてどれだけ実になっているのか

前回記事では,あたかも「大学受験産業は今後とも生き延びる途が見えている事請け合いである」とでも言っているかのような論を展開していましたが,実はその「裏面」とでも呼ぶべき状況の方こそ,もしあるとすれば遥かな懸念材料ではないかと案じています:

それは即ち,「大学入試対策なりの為に,今までのような『ガリガリ座学』をやる必要が無くなった場合」の展望如何,という事です.

そして,その中でも特に具体的な懸案は,日本の高校教育課程相当の「数学・理科」の修得到達度について,です:要は「高校数学・理科をマトモに使える水準に達している人材が,果たして今後どれだけ育ってくれるか」という重大懸念です.
無論,此の論点はほぼそのまま「大学初年級程度」の各科目修得到達者数・率にも直結します.また,こと「物理」に関しては当サイトの以前記事でも触れた通りです.

 

筆者の存じる限り,日本の若年者が各分野の学習に取り組む際のインセンティブとして,大学入試制度という「なんとなくスタンダード」社会的枠組みの存在が相当効いている,という事は,相応に確かであろうと思われます(功罪共ありつつ).東大入学前から名前が挙がるような英才は別かもしれませんが,少なくとも筆者程度の水準(物理は大学入試ほぼ満点,数学は東大模試で最高全国2位・駿台偏差値75超,東大大学院進学時点でも「成績上位6分の1以内」が判明)の学習者の経験では,高校時代に「相応の(相当の)記述答案作成的座学」を含む受験勉強を通った結果として,ようやく当該学術分野(教科・科目)内容を「相応に理解」する段階に辿り着いた,というのが正直な実感です.

 

この「ガリガリ演習」の効果は識者の公論においても認められており,例えば河東泰之教授の米国留学中体験記では大変インパクトのある実例が多く述べられています.あるいは,苫米地英人博士も複数の著書中で,「日本の高校生の数学学習は工学的用途に偏り過ぎていると見える」旨を指摘される一方で,「理学のアメリカと工学の日本」という切り口では,かかる「工学」が日本の生産性基盤を支えてきた事を是認されています.更には「大学進学志望者への試験では数学と物理を必修にすべし」との提言もあり,各学術分野の課程内訳はともかく,大局としての体系知識心得が必要,という意味においては合意可能であるものと思われます.

 

…そこへきて,もし現行大学入試のような競争選抜試験の形をしている「ガリガリ座学に勤しむ為の動機として機能する目標」が見え難くなったとき,日本の高校生(若年学習者)の中に果たして,どれほどの「なお走る」=そして相応に成業する人が,残るでしょうか.かく言う筆者は,つい先日の記事でも「高校進学以降までRPGに勤しんでいた」と露呈開示しておったばかりですが,実際そこで培ったのは「暗記とやり込みにかける気合」である事もおおよそ間違い無く,尚且つその直後に大学入試対策受験勉強へ向けて使い始めた「気合」とは,まさに従前長らく続けてきたRPG経験の中で培ったものに他なりません.RPGタイトル複数をカンストまでやり込んだ気合は単純に趣味だったかもしれませんが,受験勉強(&そこから続く大学以降の学術分野知識習得)に対しては,「その気合が活かせる」と認識していなければ,まずもって着手する主観的機会すら無かったのではないか,と今なお思います.

「塞翁が馬」と俯瞰されれば上述いずれもそれまでの範疇になるのかもしれませんが,さてもなお,「結果」の形となった事象に恩恵を被る立場の我々は,それこそ競争選抜試験に典型される如く,「結果が見える目標」の雛形を,社会システムの中に見えやすい形で置いておく程度には,具体的に踏み込んでもよいのではないでしょうか.

Share

大学受験コンサルの思う事

そろそろ多少は考えがまとまった気分になってきたので,現時点で見えるところを書き付けておきます.

 

●入学者選抜(大学入試)が客観評価として何らかのスコアリング(数値化)基準をもって行われる限り,「合格点」≒目標得点,といった概念は今後とも残存しうるものと思われる.

●にもかかわらず,現行試験制度においてすら,当事者本人として「目標」を何ら意識しないままに,いわゆる「受験勉強」への取り組みを進めている受験生・高校生等は,相当多数割合に上るのではないかと危惧される.

●また,大学入学志望者の資質選抜において,「知識が少ない方が良い」という基準が優位となる事は,今後ともまず無いと思われる.即ち,この意味で「不勉強」な志願者が大学入学許可を得る際に有利となる事は無い.

●上述の「知識」を各個人が得るに際して,その全てないし大半を「実体験」によって得る,という事は,実際的でないし,のみならず,なおも「不足」が残る可能性が高い.この不足する部分とは,ごく素朴な古典的術語では「汎化」と称される概念の範疇に相当するのだろうけれども,この際には例えば読書のような座学的方法技術の導入もが(現行の方法論とおおよそ同様に)不可欠と思われる.

 

そんな訳で,すっかり色めき立っている(今でも??)大学進学希望者選抜試験方式改正…要するにいわゆる「2020年大学入試改革」の事ですが,筆者は「目標スコア取得達成ゲームのルールが変わるだけ」に過ぎない,程度の認識でおります.かつての当事者として,また教育職においての経験を含めて,展望見える限りで.

もちろん,「選抜する側(≒出題者)の意図」すなわち「大学が求める入学者像」という典型論点もある訳ですが,「それ」に対して実際の試験制度が如何になっているか,という事情は,現行の状況においても露呈している通りです.
端的には,「生き残りを懸けた再編」こそあっても,「上位層の集中による選抜激化」の構図の方は,より既存の状況に近く映るのではないか,と.

 

つい先日も,ある有名難関大学入試への合格を万全としたい,と仰る受験生御本人に,

●入試本番の大学個別学力試験(いわゆる2次試験)で,合計何点=各科目何点ずつ欲しいんですか,またセンター試験で何点欲しいですか

←●その為に必要な学習取り組みをどのようにしますか,教材は何を使用しますか・それは手元にありますか,その学習の量を時間で見積もるとおおよそ累計何時間・何週間・週当たり何時間ですか,またあなたの志望する入試で課される科目全体への配分の中で,個々の科目に掛ける学習量の位置付け・タイミングスケジュールはどのようになっていますか

←●今から入試本番まで「受験勉強」に使える学習時間・量はおおよそどのくらいですか,また現時点であなたの学力を目標とする入試の得点で測ると,まぐれ当たりでない点数はいくらですか

と訊いてみたところ,どれ一つとしてマトモな応えが返って来なくて唖然とした限りなのですが,敢えて厳しく指摘言及するなら,「目的が不明確なまま勉強には取り組む従順なよいこ」が「ロコツな数値目標をクリアする為に正面から入試ゲーム攻略に臨む(セミ)プロ受験生」よりマシと評しうる基準は,今一つ思い浮かびません.

 

実際には,私どものような職業専門家が上記のような「打算」計画を立案して提供する務めを担っている訳ですけれども,その計画の内訳である学習内容を「実施」するのは,あくまで学習者本人です.

これもよく訊く試問(苦笑)なのですが,「全方位的に勤勉」たろうとする(?)生徒は,大学受験に際して「家庭科」や「ドイツ語」も満点ないし高得点を目指して勤勉に取り組むのでしょうか??と.個人的には,入試に無いような科目も知識体系として(の捉え方に限って)すら有益なので,高校平常学習程度でマトモに取り組んでおく事は元来良いとも思っていますけれども.
とはいえ,それが「入試本番の得点に貢献するか」については,職責として実際別途の言及もしています.にもかかわらず,上述の論は理解出来る受験生(及び,さらには保護者層)の中に「まんべんなく高得点率で安定合格」を目標に設定しようとする例が,枚挙に暇無く後を絶たないのは,彼等の教育水準の高さに比しても相当不可思議です.その背景や一体,縋り宗教の類か何かなのでしょうか.

Share

教育において「財源が有れば出来る事」は果たしてどの程度か

最近も幾つかの文教系会合で末席にしれっと入っておおよそ正座しておったのですが,「相変わらず文科省系統は予算もってくる力が乏しいっす」と「現場教員は激務過ぎて死んじゃいます」との現状認識二大巨頭が従前知識を大幅アップデートな感じで見て取れまして,国政レベルで随時上がってくる報道タイムライン(主に最近のよろしくない方面話題)への留意と視線を分散させながら,頭だか腹だかよく分からないけどなんか段々痛くなってくる気分で,素人意見表明のタイミングさえ全部スルーした有様でした.
それ自体は単に「論題の箇条を作ろうとするベースとして採ってくる現場事例が筋悪下手過ぎるだろう」という斬り方でも済んでしまう程度の談かもしれませんが,こと「じゃあ『逆』は果たしてどれほどアリなのか」と思い起こしてみたときに,やはり「金を掛けたらイイ教育は出来るのか?」との一行設問にまで挙げると,一言でキレイに応える事は中々…いや到底難しいように思われる,と申さざるを得ません.

なるほど「金が無いと厳しい」は有るかもしれませんが,こと教育において,相応の「結果」に何よりも直結するのは,学習当事者(=教育の「享受者」)本人の「意欲」ではないか,と,私個人なりの職務経験の限り見えるところで,やはり思う次第です.(ところで全く余談ですが,今年で私の教育職経験がさる大台に乗っていた事に書きながら気付きました…)

 

そして,この「意欲」を支える重要な因子として「環境」もが効いているのではないか,という試論が,匿名ながら近日上がっていました(下記リンク記事).個人の人生遍歴譚なので安直な一般化は到底困難な内容も多く見えますが,他方では思い当るところある「構図」も垣間見えるかと存じますので,ひとまず御紹介:

高専・奨学金でなんとか高学歴?になって、感じた・思ったこととか
http://anond.hatelabo.jp/20170609081119

…ナルホド,「金が無くて厳しい」の一例はこういう当事者感覚か,とも見て取れます.

 

他方で,最近は教育分野でも御自身の経験(まさに真っ最中)を含めて記事を多数書かれまた大いに参照されている,山本一郎さんの論の中には,こんな一幕もあります:

子供の「好き」を未来の糧にする大学入試改革のこと
http://kodomomirai.com/column/education/1217.html

そうなると、子供の教育、コントロールというのはとっても大事になってくるように思うわけです。とりわけ、何に興味を持たせるか、あるいは持たせないかってその子の将来を左右するといっても過言ではない。というのも、例えば長男が「つくば宇宙センターに行きたい」というので子供三人連れて筑波エキスプレスに乗って宇宙観光にいくじゃないですか。こっちは宇宙の図鑑持って、ネットで太陽系を調べながらわくわくで向かう途中に、似た年頃の子供を抱えた一家が戦隊モノの資料を一生懸命見ながら時間を潰している。もちろん、好きなコンテンツに熱心になるのは悪いことじゃないですよ。でも、子供の教育と将来の生産性を考えたら、戦隊モノやアニメに時間を費やすことが子供の将来に良い影響を与えるんだろうか、と悩んでしまうわけです。目の肥えた良い消費者になることはあっても、そういう戦隊ものを参考にできるようなコンテンツ制作者にならない限り子供のころから培った目利きの能力が社会で役に立つ能力になるはずもない。

拙宅山本家だって、親が仕事で忙しいとiPad渡して好きな動画を見せてるときがあって、そうなると三人でドラえもん観てたりします。長男も次男も一時期は妖怪ウォッチにハマって、メダル集めてました。そういうものも好きで良い。ただ、未来に対して生産的になるであろう興味関心と、単に子供の消費者として時間をつぶすだけの代物とのバランスをどうとるのがいいのか、凄く、凄く悩みます。喉のところまで、そんなもの観てないで算数でもやれといいたくなる、それをグッと堪えて「ねえ、ドラえもんの映画はどうだったの」とにこやかに訊いたりします。次男が「タイムマシンを作れるようになりたい」と言われたら、すかさず地球の歴史は38億年あってね、みたいな話に振りながら三兄弟が「宇宙って神秘的だね、凄いね」って言い出す流れにもっていくという涙ぐましい努力が必要なんですよ。

同著者の他の記事を併せて読むと,大局としてはさすがに相当マトモな事を仰っていますし,親の務めの一として「期待値を上げる」企図にも臆面なく言及されているあたりには,世の中における当事者ポジション論客としての誠実さやバランス感覚をも感じます.

 

とはいえ,何度でも言いますけれど(こと「教育」分野において言及するに際しては),小学生当時に同級生から煽られて始めた某RPGがなければ,今の私は絶対に無い訳です.その後私が高校進学以降までRPGに人生時間の多くを投入する事になる傍らで,小学校生活半ばから塾通いを始めた級友の多くは,果たして所期の目的に比してそれ相応の成業に至ったのでしょうか.少なくともこと「進学実績」的基準に照らしてみた限り,私以外に同程度の教育水準まで辿り着いた同期は,通塾組の中にこそ殆ど見当りません.尤も,同様の構図は進学した先の地元公立高校同期を見ても指摘出来る事であり,そうすると「教育って何だっけ,一体何を出来るのか」といった,それこそ筋悪アホ過ぎる展開に陥るのかもしれませんけれども.

Share