高木浩光先生のブログを目前にして正座してみたものの,先ず情報の物量に呆然としているブリザムです.サイバーテクノロジーと法制の両方に関心を持っている中途半端な初学者で,別段技術的に専門家になるつもりは今のところまず無いのですが,さりとて「何も知らないままやり過ごす訳にはいかないだろう」と感じながらここ何年か経っていて,積んでいる本も目の前だけで数十冊程度はあります.
先日,そんな本の山を眺めながら読書リストを確認して,年間通読冊数がだいぶ減っていて「やっぱり」と思った…のですが,その後で冷静になって電磁的文書の読字数を概算してみたら,日々の通読量合計はむしろ増えており,逆の意味で頭を抱えました;道理でしょっちゅう画面を見ながら「乗り物酔い」の状態を感じる訳です.
ここで,苫米地英人博士なら「専門家が読んできた(であろう)文献を全部読んでしまえ」と言うところでしょうが(既刊所載意見の通り),それを額面通りにやってみて,乗り物酔いを越えたところで往々にして「寝落ち」するのが半ば常態化していたところ,寝落ちを前提に生活を組み立てていた金子勇さんが早世された事を反省材料として,ようやく身体健康とのバランス感覚にまで意識が向きつつある…というのが,ごく最近の私の有様です.
勿論,これは学者としては満額の答えというか,ごく当たり前の大前提であって,「そうでない人が声を出す事はそもそも間違っていて,世界にノイズを提供しているに過ぎない」との原則認識くらいは分かります.かく言う私自身,「既出の議論を何度も説明し直すのはダルい」と思うから拙著や当サイト記事を書き貯めて公開している訳で,学歴のような知識到達水準で相手に「足切り」を掛ける判断なども,理論的には何ら間違っていないと思います.
他方で,実際現世的にはおおよそ「浅学無知を全く悪いと思わない,『鈍感力』に長けたノイズ発生器」の方が,まずもって優位である事も否めません.単純に「早いから有利」という事なのかもしれませんが,それをあらためて「不正確だけど早い」と言い直してみると,「幾ら何でもそりゃウソだろう」と直感的に思う訳です.
で,「それでは何を選択するのか」という問題意識が立つ事になります.こういう素朴な疑問を「なんとか話が通じる相手」のところへもっていくと,「あらゆる分野の専門家というのは居ない」と,これまたほぼ満額と思われる回答を頂いたりして,大抵は正座しながら挨拶してその日は終わるのですが,「では,あらゆる分野には専門家orノイズしか居ないのか,その『あいだ』にはどうやって歩み進めればよいのか」ともう一度食い下がると,往々にして方法論が見当らないといった状況に陥ります.
ちなみに,私が「専門」の看板を掲げている”教育”分野というのは,あくまでも正答(および満点)が存在しているが故に「やり込み」が有効であるに過ぎず,換言すれば「時間座標的には何も進んでいない」事に相違ありません(だからこそ,私の職務提供においては「若年者優遇」との大義名分の下に「未来時間期待値による足切り」を掛けている訳です).
「積んだ本を読むより積み増すスピードの方が速い」事を示す雑な試算モデルを作って大変萎ゆる思いをしたのは,もう大分昔だった気もするのですが,毎晩検索結果一覧から開いたタブを百ページくらい読んでいる内にブラウザがクラッシュして,ふと「我ながら本音は未だ懲りてないな」と思ったりもする次第です.
同期の計算機科学者から「お前さんはフレーム問題と戦っているのか」と言われたのもその大分前だったはずですが,そういえば最近は,横断歩道の渡り方とか電車の乗り方とかが,段々分からなくなってきた感もあります;5歳くらいの頃はむしろ「横断歩道の渡り方を学んで教える」事などをやっていた記憶があるのですけれども…「学習の効果で判断が鈍くなりました」なんて,額面通りには信じたくない話ですが??
見渡す限りの博士達も,さすがにそこまで「爆死」はしていないんじゃないか…と思うより前に,「どうやって相互認識しているのか」が気になって,共通了解とか呼ばれるプロトコルの成り立ちを模索し始めて今に至るのですが,つい直近も2択のトイレに阻まれて「壁を蹴っても仕方無いしなぁ」と佇んでいる中で,他の人達がおおよそそこで迷わない(らしい)様子を眺めて,理由が謎で不可解な気持ちになりました.もっとも,同じトイレの前で「50人分」もずっと見張っていた事はないので,確率的に出くわしていないだけかもしれませんけれど.