「サイバー空間に住所をおく」と決めて今世紀に入ってからずっとやってきたが,その経験をふまえて最近随所で言ってきた事をあらためてまとめておく.
まず分かったのは,サイバー世界には特段何の意味がある訳でもないという事だ.これは無論,師匠でもある苫米地博士が著書でだいぶ前に指摘していた内容でもある.メルマガで再読した内容の記憶を辿れば,「テクノロジーは科学者の遊びだ」との大意だった.其の含意を説明する為に「インターネットなんて無い方が幸せだったかもしれない」との例題もあった.
当然此の主張に際して,ネットワークゲームにハマった経験者なら第一義的には異論無いだろう.私自身がマトモにプレイしたネットゲーはmixiとTwitterだけだが,それですら体感としては十分理解に足る.
他方で,では現世には何がしかの意味があるのかと思うと,別段サイバー世界と大差無い,というより,論理的に意味のある差異を見出す事は困難であるように思われる.物理わけても物質(mass)の存在は,現世をサイバーから区別する方法の一端と考えられるが,論理的即ち数学的にいえば単なる制約条件の追加でしかなく,考える系に対して拘束条件としての方程式を1つ以上追加する事に他ならない.いわゆる縛りプレイの一種である.縛りゲーであるのなら,そりゃ面白いと思う人はプレイすればいいが,興味の無い人にまで強要する道理も無かろう.
これが仏教の「空」概念である事も,拙記事読者には言うまでもなく承知されているかと思う.
以下個人的な反省を述べる.
物理もサイバーも大差無いと身を以て直感したので,爾来むしろサイバーに従前ほど傾倒しなくなった.筆者はサイバー環境が充実するより前から「画面の中」側にずっと本体をおいてきた.X(旧Twitter)の現在地表示は今もリムルダールであり,同地住まいは既に35年を超えた.旧知人らからすれば,此の期に及んでサイバー以外に活動拠点を置き始めたなどという事は,相当奇異に映るにちがいない.
そしてついでに,物理でサイバーと同じように遊ぶようになった.勿論TBWの御蔭で身体健康が劇的に改善した事も大いに利いている.殆ど高校物理の力学で表せている現象を,自分の身体というゲームコントローラで操るのが面白いと今更感じる.地面の形状を下駄で捉える生活も始めた.大学院でリー代数を触っていた立場として,接空間の構造を身体感覚として捉える実践と言い張っている.
またAppleVisionProのSpatial撮影機能を用いて,昔から好きな地形道路巡りを全部電子情報化するvolunteerにも着手した.此の際は未だ下駄に慣れないので適当な運動靴だが,ここまでくるともはや,現世の情報をサイバーに吸い上げているのか,或いは寧ろ逆でサイバー空間を物理に何らかの意味でぶち込む射を構成しているのかもよく分からない.唯一ちょっとだけ意識に上がるのは,おもちゃが桁違いに増えたという実感である.実写を含めて地図を上から見て読む趣味(遅くとも5歳の頃から地図は読んでいたし,更には描いてもいた)は,少なくとも一段階発展したと言っていいと思う.
教育職の資質の一として,自分の人生はどうでもいいと思っていなければ務まらない,という認識をずっともっている.確かに現世は別段どうでもよく,それこそノードの個数に依存して凄まじい増大を見せる組合せ的函数の出力結果を,更にこれまた凄まじい刈り込み数量を発揮する物理という束縛条件を同値類とみて割った商空間(に同型)がせいぜいであろうから,本当にやり込みゲーとしてお好きな人はどうぞとしか評しようもない.ただ,世の中には意外と,自分の人生をどうでもよいとは思っていない人がいるものらしく,彼らが改善したいと思う事がある限りは仕事を提供する余地もある事になる.最近も宙に浮いた仕事を巻き取っていたら,公的セクターのサイバー環境構築だの物理化学その他のセキュリティハードウェア整備だの人生改善を求めて心身の健康もろとも整える需要だのと用事がだいぶ降ってきたが,私感としては今晩遊ぶフリーソフトが貰えただけである.インターネットに馴染んで以来,コンプリートオタクの全辞書暗記癖も此の点ではだいぶマシになった.中学時代後半に「考える事が増えたのは果たして成長した事になっているのか」と作文で書いていた憶えがあるが,計算コストを恣意的に削る技術を多少学んだ程度には成長したのではないか,と数十年ぶりに書き付けたく思う.おりしも今年は出身中学校の創立50周年である.
