たとえ財源を確保しても,それに「見合う」教育の改善にはなお大分途が長い気がするのですが,どこから議論に着手したものでしょうか

 

学力には敏感に反応しても教育環境については無視する日本政府http://bylines.news.yahoo.co.jp/maeyatsuyoshi/20160920-00062365/

あぁ環境ってそういう話か…私は一瞬タイトルだけ見て別の事を考えた(∴誤解しそうになった)ので,先ず元記事本文はぜひ御一読頂きたく供覧.

で,其の本編内容に関しての私見は:「元来教育は『つぎ込もうと思えば多分ほぼ青天井』なのだが(含経験則),それを制度担保する方法論が今一つ見えない」事が懸案の一因ではないかと見えて,それゆえ「たとえ財源を増やしたとしても『激務or手抜き丸儲け』の構図は,根底の本質側が変わらない限り,改善に早々限度が見えてくるのではないか」といったところです.
金を掛けてもマシにこそなれ,日本国内だと「学費最高峰」でのシステムが運用実態上ザンネン半端になっている例なども存じているゆえに,これほどの懸念を敢えて先ず表明しておく次第です.

考えうるソリューションの1つは,「教育に人生を注ぎ込む気の有る人が担う」実状をシステマタイズ含めて行き渡らせきる事ですが,そこでまた結局「個体差」が派手に発動して「命削った歴史的存在の偉業vsその他(統計的多数派)の凡人の使えなさ」といった,どうにも着地の見え難い社会一般の課題に包含される形の懸案に行き着く訳で,そこまで見通した上で「先ず金の問題(財源の寡少自体は確かだとして),そしてかつ成果に対して再分配もが適切に成される事」を論題設定とするなら,まだしも今回紹介元記事のような議論(※先例は往々にして筋が悪いor着地が見えない)をあらためて湧き起こす事にも,壮大な意義は有ろうと言えましょうか.

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