日記:長生きをすべきかどうか

[日頃考えている問題意識を共有に供するべく記事の一として書き付け.]

ここ最近,「真っ直ぐな」人(私から見える限りで)と多くお目に掛かる機会を経て,私が進んできて・進もうとしている先には「道なんて無い」のではないか,とあらためて思うようになりました.
いや別に,あるいはそもそも原理的に誰しも(特に「将来へ向かった既定の」)道なんて無いのかもしれませんが,こと私自身の場合には,「進もうとしたら道が無かった」記憶も数有るな,と思い出しつつ.

「道が無かったからつくる」まではよくある…というかごく一般論の範疇と思うのですが,ではその「わざわざ道をつくった事」に一体何の意味があるのか,と確認してみようとすると,今一つ分からなくなったりもします.
私自身が爾後再度通るような道ならいいのですが,実際には私そのものは「先へ進んでいる」がゆえに二度と通らない道もあったりする訳でして,そうすると「後の誰かが使うのか」or「空前絶後」なのではないか,という展望が浮かびます.自分で嬉しいかどうかもさる事ながら,それは果たして世界の合計値をより豊富(better)にしているのか??という課題設問が続きます.

 

他方で,私の計算コスト(往々にして「道をつくる」際にも費消される)は結構甚大で,現代最先端の人類の文明の知見成果の上にあって初めて成り立つ代物であろう事も,まず間違いありません.米を作るどころか炊く事さえコンビニに置いとくまでやらせた方が早いと思いますし(物流トレーラーを2両連結にする法改正を経てまでなお),近くを通りかかった人に「代わりにトイレ行ってきておいてくれませんか」と頼んでしまう程度には,自分の身体に関してすら認識が「外側のどっか」感否めない有様です.

「単騎」で使う代物ではない,という事くらいまでは,おおよそ分かっている認識です.それこそ小学生の頃から「他の人がやっている事はやらない,なぜなら自分がやるまでもなく誰かがやるから」と意識していて,当然のバーターとして「だからこそ,凡人並みの事をやっている世界中の他者各位に対しては,本質的に依存しているという意味で頭が上がらない」も金科玉条として当時から明確に有りました.当時ってもはや人生時間の前半ですが,今なおその原則は本質的に大差無い程度で進んでいるような気もします.

ただ,その際に「コスト分配」をどうすべきか,については,未だマトモな解答を見ていないように思われます.これも往時から気に留まっていた事ではあって,「世界人類文明は野良ブリザムをどう生かすのか」とつねづね不思議に思っていたのですが,率直に言って今も不思議です.比較的近年に複数回の開腹手術・臓器摘出を受けてなお今生き延びている(しかもこんな文章書いたり出来てる)なんて流石に人生の予定に無かった話ですし,あるいは高校時代の同期から「ブリザムは最初に死ぬか,さもなくば最後まで生き延びる人だろうね」と言われていた事もあったのですが,残念ながら最初に死んだのは私ではなかったので,最後まで生き延びる…の?? と言うか最後までって一体どのくらいですか,150年とかになったりしませんか…そんな長生きした奴ってリーマン予想くらいしか例を存じないのですけれども.

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