「性別規定」なる代物は,一体何だったんでしたっけ

青木志貴さんが百合舞台キャストと聞いてなかなか日本語の理解が追いついていないブリザムです.ごきげんよう.

 

ところで,日本女子大学が「脳自認ベースでの女性」を受け入れるかどうかを検討の俎上に載せたとの事で,まとまった報道記事になっています:

「体は男、心は女性」入学可能に? 日本女子大が検討へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170319-00000070-asahi-soci

幾分長めの記事本文から読み取れる「世論向けを意識したと思しき温度感」に,どこからツッコんでいいやら迷いまくるに事欠かない論題(一連の)ではあるのですが,先に今回記事で深くは触れない項目を2点挙げておきますと:

●そもそも「性別が二択の前提で制約的性別条項を設ける」事自体が,当事者(今回の場合学校)自ら地雷を引き当ててしまっている状況の元凶には違いありません.ネットスラングで言うところの「乙」としか申しようも無い程度です.なぜなら,学校制度みたいな教育においては,性別とか関係無くないすか.

●また,「女子大は存在自体が憲法違反ではないか」との論については,既に随分前から苫米地英人博士が著書で複数回にわたって言及してきているので,原則はそこで足りていると思います∴各著参照.

 

さて,その上でこと私が気になるのは,むしろ斯様な「制約的性別条項」を設けていない,いわゆる”共学”的な組織制度(より一般には「社会システム」各方面)の数々です.

かく言う私自身は,小学校ではトイレ選択に際して制約が無く(2種類有りましたがその時々でテキトウに使ってました),中学高校では制服規定を「違憲」の一言で更地にして私服通学を徹底し,大学は旧制男子校(東京帝大)なので選択必須の性別欄は無く(今では人道的理由で「改善」されているかもしれませんが,学部入学当時は「女子はチェック」という項目があるのみでした),大学院は旧制女高師でこれまた書類に性別記入欄が無い,と,現行日本国憲法制定以来一度も改正されていない条文を単にそのまま使うだけで「事実上ほぼ困らない」環境を享受してきた経験を持っているので,「同じようにやればいいのでは」と思う訳です.

が,その私の出身小学校にも,「二択のトイレ」自体は確かに有った訳です.

ましてや,当サイトでさんざん既述の通り(一例:http://wp.me/p6S43T-4l),「脳ミソ意識自認ベース側に寄せた結果,解剖学的医学特性とは『逆寄せ』になる」という意味で「二択」自体は足りている人なら,まだしも今回報道のような措置で「救済」を得る可能性がありますけれども,他方では「そもそも二択以外」の場合に該当する人(統計調査上1%前後存在が判明しています:上記リンク先拙記事参照.)への「対応」は,未だ議論の俎上に挙がっている様子が見受けられません.

 

つい先日も,数理科学の心得を有する方面から「二値定数函数だと思っていたパラメータ(性別)を変数に一般化された時点で,人間の大多数の理解計算がふっ飛ぶor意識が落ちるのはやむなかろう」と指摘を頂いて,「へぇ~そうなんだ」と襟を正す素振りを見せてその場は過ごしたのですが,存じる限りでも公教育関係者各位は,この「二択以上のマイナーな性別(を有する人)」という概念の取り扱いについて,概して相当逡巡する動きとなっており,暫定「棚上げ」結論としてから数年来そのままな話も聞き及ぶところです.

 

勿論,最近では上述のように大規模統計調査の成果も広く知られるようになってきており,(セクシュアルマイノリティに限らず,より一般に)統計割合的少数者なるものが「母集団の大きさが相応に有って初めて直視可能になる」という構造も,あらためてエビデンスの下支えを得つつ,何とか認識出来る形に進んできています.

そんな中で,「今に始まった話でも何でもなく,昔から『結果的に生殖に寄与しない』層というのは居たし知られている事な訳で,彼らの各人その人の人生としてのロールモデルには一般に『性別』因子って必須ではないよね」と思う素朴な当事者意見をも,当サイトでは既に折に触れて述べてきている通りです.

こういう事を言うと,国家政策レベルで「人」の統計動向を見ていらっしゃる識者の立場,それこそ例えばやまもといちろうさん(http://yakan-hiko.com/BN6170)あたりからは,別の観点から厳しい御異見を頂戴しそうですが,

こと個々人が「自分の人生」において,社会的合議の下で定まった「二択の性別」に,必ずしも合致するとは,一般には限らないのではないでしょうか?? という,当たり前の事を述べたいだけなのですけれども.

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