人類の生物学的存続と競合する可能性のある「人権」は,果たしてどこまで認めうるのでしょうか

表題を見るからにややこしそうな記事が出ていたので参照します:

青木志貴の魔王式随想:「友人」という存在と「女子の輪」
https://mantan-web.jp/2017/04/16/20170416dog00m200011000c.html

当サイトは基本的に「芸能」方面へはあまり興味がないのですが,上記引用記事中で述べられている生育歴・特に学校環境関係のあたりで,私自身の経験に照らしても「思い当たるフシがあり過ぎる」と直感した由,今回言及させて頂く事としました.

ちなみに,私の場合「いじめ」から逃れる事が出来た理由(おそらく唯一最大の)は,「中学校進学時に受験組が一斉に抜けてくれた御蔭で,進学先の地元公立中学校で私が学年首席を獲れた」という事情であって,此れは「人生クジ」を何度引き直したとしても2度目は引けないだろう,と思うピンポイントエピソードの最たるものです.

 

さて,引用記事の内容に戻りますと:内容を順に追ってお読み頂ければ見える通り,本件は「文科省事案」込みな訳です.と敢えて強調しておきたい.
かく言う私個人の経験の限りでも,社会的に「性別非公開」を徹底しようとした際に,こと「学校的な環境」のぶち当たり堅さはやはり一段キツいように感じられる場面が珍しくありません.

実際には,例えば性同一性障害に対応した小学校の例などは随分前から報道にも挙がっていますし,またより近年では「性的少数者について現職教員が座学で学んでいる」といった話も聞き及んでいたりしますが(直感的には「本当に大丈夫なのかそれは」と逆の意味で震え上がる向きも否みがたくありつつ…),
『例外的対応』をどこまで出来るのか」と,「そもそもどこまで対応すべきなのか」という,少なくとも二本立てというか二律背反に近い命題が,端的に本件人権の錦の御旗を支える柱になっている構図ではないか…とも考えうるあたりで,明確な「処方箋」を提示する事が難しくなってくるように感じられます.

 

勿論,大義名分としては「国連レベルからの人権」(ジョグジャカルタ原則なり)という訳で,これはこれで有史以来人類の叡智の一つの結晶と言えます.しかし他方では,かかる「人権」を認める事が出来る論の前提として「世界人口は保たれている(実際上は未だ増え続けている)」という,算数上の母集団規模に,全く依存している話である事にも相違ありません.

前回の拙記事では,山本一郎さんの提示した「ロールモデル」案に異見を唱える立場から御紹介しましたが,これがより窮極的に「人権擁護の合議結論が人類の存亡と競合する」ような状況となった場合に,果たしてどこまで個々人の人権を主張しますか,たとえ自分が当事者だとしても,という段になると,「お前の其の何気ない言い草が人命を奪っているのだ」は甚大なブーメランとして返って来る事になりかねません.

 

もしくは,総体として「人類が偏見を強めたがっている」方向性が顕わになった時,果たして其処に異見を持って旗印を振れる根拠は如何に求め得るのか? とも換言出来ましょうか.

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