前記事の続きです.先ず,筆者の「社会的所属」歴を復習しておきます:
●幼稚園(2年保育)
年中:女子
年長:女子
●小学校
1年生:女子
2年生:女子→追放
3年生:男子
4年生:男子
5年生:人外
6年生:人外
●中学校
1年生:男子
2年生:男子
3年生:男子
●高校
1年生:男子
2年生:男子→墜落
3年生:東大組牽引/不登校
中学進学に際して,「このままではいじめられ続けるから,『どちらか』に決める必要があるだろう」という事で家族会議が開催され,中学校では「とりあえず男子寄せの方が問題になるリスクが少なかろう」というだけの理由で,長い髪を切って男子制服を作る事になります.着なかったけど.
尤も,もしあと1~2年前述の「いじめ」が続いていたら,筆者はナチュラルに死んでいただろうと今でも思いますので(自殺か他殺かはともかく),ここでの判断は「致し方無い」ものだったかな,とも思っています.…私感としては「人生最大の汚点」に近い向きもありつつ.
なお,ここでの中1次クラス分けに関しては,筆者1人だけを意図的に「小学校時代に関係の深かった生徒達から隔離する」,という施策が採られました.何で知ってるかって,昇降口の下駄箱や机椅子やロッカーに貼られている名前シールが二重になっていて,別の小学校同期男子(比較的近い関係で,かついじめっ子ではなかった)のシールが下に透けてたんだもの:「直前になって慌てて調整した」小中学校連携学校当局の動きが見え見えでした.そして後までいくと結局,筆者は中学3年間ずっと,生徒指導主任担任の下に監視され続ける事になります.
中学高校で男子トイレを「合意の下で」使っていた事例って,筆者と青木志貴さんくらいじゃないでしょうか.椿彩奈(旧名:椿姫彩菜)さんは「幼稚園以来一貫して女子」でしたし(処女作「わたし、男子校出身です。」参照).
また,「着替えが問題になるのでは?」というお問い合わせなども頂きましたが,ずっと体操着しか着てない(着替えない)から問題になりすらしません.あと超太ってたので(体重80kg超,3サイズ全部メートル単位),体型面でも外から見て性別とか分からないレベルでしたし.
そして,運命の「1学期中間テスト」を迎えます.
出身小学校から中学受験組がごっそり抜けたとは言え,中学では4小学校からの流入だったので,「学年210人中まぁ20番くらいいけばいいかな」くらいに思っていました.なお,筆者はこの時点で「試験は授業でやった事の中から出題されるのだから,原則満点が当たり前であり,いっそ0点満点の減点方式(不正答はマイナス点)とし,かつ常に抜き打ちにすべきだ」という自論を頑なに持っています.
9教科のテスト結果は各教科素点と合計点が表示されて返却され,その後の個別担任面談で「十番単位で順位が伝えられる」仕組みとなっていました.筆者の担任(生徒指導主任)は「十番以内」とにこやかに伝え,それ以上の事は教えてくれませんでした.ちなみに,筆者の合計点は満点の94.6%で,「勝負科目」と位置付けていた英語が99点で机蹴ってた憶えがあります.
ところが,ここで隣のクラスの担任がやらかします:上述のルールを破り,英語満点の女子に「学年3位」と伝えてしまったとの事で,「では1位は誰か」となって「ブリザム」と勝手にバラされる流れが,場外戦で勝手に発生していました.斯くして,筆者は「ブリザム学年トップだったんだってねー」と,小学校同期と顔を覚えたばかりの新参同期生の混ざった数多くの同期生から,廊下ですれ違う度に「真実を告げられる」事になります.隣の担任,グッジョブなのかやらかしなのか.
そしてここから,筆者に対する周囲の目が変わります.「中学に入ると学力の威力がここまで大きくなるのか」と,背筋に新たな認識が走った感覚は,今でも憶えています.
ゲーマー仲間は中学受験で私立に行ってしまったので,中学1年次は結局「友達」は出来ませんでしたが,いじめ暴力とかそういう概念は一掃されていました.授業で「二人組作ってー」の際には,おおよそ「微妙な男子」が余ってるのを見つけて「私も余ってるから組んで」と頼むような具合でした.
むしろ難関だったのは部活動で,コンピュータ部に入部届けを出したのですが,「君は問題起こさないか」「問題って何ですか」「例えば,フロッピー食べちゃうとか」と,顧問(学年主任;生徒指導主任よりはるかに怖かった理科教諭)に面接で確認される始末です.仕方が無いので「機材は一切食べません,飲食料持ち込み禁止なのでコンピュータ室では飲食一切しません」と誓約して,何とか入部する事になりました.
ちなみに,この時新たに出来たゲーマー仲間が,その後●十年来の付き合いになっていたりします(基本的に事実上の「男子部」で,女子は3学年合計でも片手に満たない程度の人数でした).
中学2年次になると,クラス替えの結果,学年内でも既に有名だった知的障害生(男子)が同級生になりました.お互い「余る」ので,必然的に授業で毎回「組む」事になります.更には,隣のクラスに部活のゲーマー仲間が入ってきて物理距離が近くなったので,休み時間にはいつもゲームの曲(※歌詞は付いていません)を廊下の端で歌っていました(以前記事でも述べたエピソード).
この頃までには,「学年トップは制服着ないでも許される」風潮が生徒教諭双方間に浸透し,筆者は「学年の雄」の立場を勝ち得る事になります.そもそも,無理矢理「男子寄せ」して生活していたので,学校当局もなかなか強く言えない様子で,筆者はその恩恵をのうのうと全面享受していました.なおアスペルガー障害は往時も健在です(※後の発覚).
また,筆者が「師匠」と仰いでいた幼稚園以来の同期男子が,「腕力」方面で学年コミュニティを事実上制覇していたので,筆者はその「参謀室長」という位置付けで,物理体力を含む生徒社会的にも強い立場を勝ち得る事になりました.ちなみにその師匠は学年最高身長で,強烈な膝蹴りを得意としていました.
そして,クライマックスの中学3年次がやってきます.
上述の部活ゲーマー仲間が同級生となり,知的障害生と私と合わせて「遂に魔のトライアングルが完成してしまった」と師匠に言わしめた,まさに「絶対結界」の最たるものでした.
この中学3年次にも,体育祭・文化祭両方総合優勝,合唱コンクール銀賞で「波動砲」と呼ばれていた筆者の大声は3年間最後まで遂に優勝に届かず,とエピソード盛り沢山なのですが,何と言っても皆のインパクトが強いのは,やはり「進路」でした.
ここへきて,筆者は再び「中学に入ると学力の威力が超優位になる」体感を再経験する事になります.
往時の県立トップ高校は模試でも常にA判定で,「まぁ余裕でしょう」とずっと思っていたのですが,中学3年次12月末の模試で「得点率総合98%」を叩き出し,偏差値75オーバーで国立東京学芸大学附属高等学校(学附)の合格率が60%を超えたので,年明け間際に急遽第1志望をこの国立に変更し,担任(結局3年間同じでした)に電話をして「国立受けたいんですけど」と言ったら「いいけど,まず受かんないよ」と言われつつも,「保護者の方に相談して」となり,両親に言ったら「やれるところまでやってみるがよろしい」という話になって,結果年明けギリギリで願書を母に取りに行ってもらって,まさかの国立受験となりました.
学校内では受験校は秘密にしていて,「受かったら言う」「早慶?」「いや早慶なんて遥かに簡単」などとごまかしつつも(往時早稲田って未だ男子校しか無かったんじゃないかな…?),筆者は初めて「受験勉強」を体験する事になります.この時の自分ルールは,「アニメは有り,ゲームは無し,疲れたらベッドに仰向けになっても良いが,抱き枕はNG」というものでした.夕食が出来ると妹が部屋まで呼びに来てくれるようになりました.
今更対応してくれる塾も無かったので(地理的にも遠かったですし),過去問を解いて1教科だけ点数が低かった数学を,市販の「最高水準問題集」で補強して,受験に臨みました.
ちなみに,筆者の持論だった「試験前だけ勉強するのはズルい」との信念は,「随時勉強しているなら論理的に整合性は成り立つ」に書き換えていました.
中学受験で私立にいった地元の同期から「過去問をやるといいよ」とアドバイスをもらい,過去問を徹底してやり込んで,「本番」に臨みます:
2/12(水)1次試験(筆記)
2/13(木)1次合格発表
2/14(金)2次試験(面接)
2/15(土)2次試験発表
2/13@世田谷区某所,結果はまさかの「1次合格」でした.この時点で在籍中学史上初となり,「歴代首席」(往時,但し6年後に抜かれる)が確定しました.教諭陣も流石に全力バックアップ体制となり,「我が校の命運はブリザムに懸かっている」的な空気が漂っていました.
2次試験では「3対1面接」という激しい構図で,「趣味は何ですか」「テレビゲームです」「では,好きなゲームのタイトルを3つ挙げて下さい」という,謎の緊張感で進んで終わりました.
発表が次の日だったので,聖書を読みながら回数券で世田谷まで向かいました.
2/15,2次試験の番号は無し.
「解禁」とばかりに,高校最寄り駅の前にあったゲーセンで格ゲーを1本やって帰りました.
中学は午前日程だったので,地元に帰ったらギリギリ校長先生が帰途につこうという所でした.
「不合格でした」「お疲れ様」という報告で,校内に辿り着いたら担任は未だ居たので,「仰っていた通り,まず受かりませんでした」と正直に(アスペルガークォリティ)言ったら,「何を言っている」と返されました.お前が年末に電話で言ってたんじゃないか.
反応が凄まじかったのは,週明けの2/17(月)です.翌日2/18(火)に県立高校一斉入試を控えていたタイミングで,筆者は自宅ゲームも解禁して呑気に遊んでいたのですが,生徒の反応が異常でした.結局「受からなかったけど高校名はバラした」訳ですが,大半の同期生が受験する県立高校入試を控えて,筆者の元に「どうだった?」というインタビューが,学校から自宅までの帰路に至るまで殺到しました.尚,訊いてくるのはほどんど女子.「現実主義とは斯くあるものか」を体感しました.
翌日の県立高校入試は余裕の英語数学満点,5教科総点96%.翌2/19(水)の新聞朝刊で自己採点をして,中学に登校してライバル(同じ高校)と得点照会.一部記述問題も有ったので,筆者は「最低でも94%」,相手は「最高でも94%」,「じゃあ私が勝ったな」でした.なお,県立高校の合格発表は,合唱コンクール(3/1)明けの3/5.入試制度変更初年度に伴う,異例の長期間空き合格発表でした.
3/10の卒業式で制服脱ぎ捨てて体操着で卒業証書を受け取った唯一の卒業生となりましたが,10年後でも全然伝説は語り継がれていて,しかも後に高校で同期生となる他市出身生から「高校でもやるの?」と訊かれるなど,香ばしい話題には事欠きません.
なおここで(後に判明する)重大な問題がありまして:
国立「第1志望」不合格で,すっかりやる気を無くしていた筆者は,高校の性別欄も「もうどうでもいいから中学と同じで」と書類を親に任せて提出してしまいました.この時の「判断の至らなさ」が,進学1年半後に炸裂する事になります(次記事に続く).