多様な選択肢としての「やり込みゲーム」を残しておく事は必要だが,其の意義付けにも慎重を期すべき

医学検査の最中にふと独法化と財源の話題が挙がって微妙な立ち位置を確保しつつ受け応えるブリザムです.ストレステストか何かでしょうか(??).

ところで,少し前に拙Twitterでもメモだけ書いておいたのですが,こと日本の公教育システム(に対する社会的受容の実態)において,教育の「成果」はあまりにも低く評価されていると思う訳です:
https://twitter.com/kazmiblizzam/status/904748395448885248

【練ってない雑感メモ】何度考えてみても,日本の公教育は先ず「形式的に卒業・修了した事にしてしまう」のを即刻やめるべき(さもなくば地盤沈下崩落する)に違いない…と思うのですが,此の理念を実装完備するには「年齢差別」を全廃する前提が必須と見えて,なお難関の絶壁さ感を禁じ得ません.

ちなみに,此の問題意識の先にある展望は何かと言うと,その教育水準(知識・教育成果の到達程度段階,「知的水準」)を上げていく当事者の立場にとっての,あまりにも「報われない」「割に合わない」感の度合い,といったところです.

かく言う筆者は,「気になる」「納得いかない,だから調べる」に始まって,地図・図鑑通読→各種取扱説明書通読→辞書通読→複数自然言語辞書暗記[→…→]化学→薬学→医学生理学[→…→]物理学→数学→数論[→…→]可積分系[→…→]数学基礎論→論理代数系→計算複雑性,くらいまで辿ってきています.
この間,出来合いの教育プログラムに乗って演習カリキュラムで地獄を見るような思いをした局面も度々あった気もしますが(苦笑),基本的には「そこで得た知識・知見は,おおよそ『今に活きている』と言える」ものと認識しています.

とは言え,ではひとたび,「その内容が『割に合っている』ものか?」という形で問いを立ててみると,返答に窮さざるを得ない事の方が多い気もします.というか,「自分の疑問を解決出来た」事以外に使い途の分からない知識が殆どではないか,くらいの感さえあります(苦笑).

 

「AIに仕事を奪われない人材になるための教育(カリキュラム)とは」などという言説が最近もまことしやかに各方面で挙がっている模様ですが,そもそも「教育の実利」って何でしたっけ,という,ごく出発点近傍の論点から,今一度マトモに考えてみる必要があるのではないか,と案じます.

「今ここで頑張って勉強しておけば後でいい事あるよ」的な言い草は,古く科挙の時代から知られていたようですが(宮崎市定先生著参照),それってホントなのでしょうか,との注意を,少なくとも「その実利はホントですか」と「そういう釣り方はそもそもアリなのか」の各面から確認しておく事は,理詰めとして必須と思う次第です.

 

タイトルに詳述が文量追い付かなくて釣り記事かの如くなっておりますが,裾野の広い汎論のとっかかりを提供申す程度の感覚で,ひとまずお送り致します.

なお,こと「報われない」の根幹原因を探っていくにあたり,「そもそも知らない人の方が割合として多過ぎる」旨に関しましては,先の拙記事「高校物理を修得している人材の稀少さ」(http://wp.me/p6S43T-6Z)も御参考のほど.

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