「あだ名」と「本名」と「名前の付き方」について考える

当サイト的にタイムリーな話題が来ましたね,という感じでしょうか:

「あだ名禁止」2割が賛成 小学校時代に「嫌な思い」―民間調査
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111200153&g=soc&fbclid=IwAR3Rf_SDqPbHwUBQvg5mwIpBIsBo_cPUihlRtncob5_WR3DlOJWmT21KGq8

元調査はこちら:
【あだ名禁止令】あだ名を禁止する校則、「賛成」は18.5%
https://trend-research.jp/5205/

 

という訳で,前回記事「なかのひと」で「中の人の本名」という概念にさらっとだけ触れていたと思いますが,ここでは更にこの「本名」という概念について考えてみる事にします.

 

まず,「本名」というのは字面通り「本当の名前」という意味であり,この「本当」が何か,という事については,法定されていません.また,ちょっと出典の調べがつかないのですが,過去にたしか大阪高裁あたりで「行政登録名はあくまで『行政機関が使う際の名前』であって,必ずしも『本当の』という事を保証している訳ではない」という判決が1990年頃に出ていたはずです;当該裁判の存在は「夫婦別姓」について調べていく中で筆者が1997年頃に知りました(出典をご存知の方がもしあれば御教示下さい).

 

さて,ではこの「本当の名前」とは何か,という事を,出来る限り同定する事を試みたいと思います.

筆者の立場は,前記事をお読み頂ければおおよそ分かるかと思いますが,「中の人が定めている『本名』が最優先である」という立ち位置であります.そして,この定義が問題になるのは,例えば「中の人が複数居て,それぞれ別の本名を持っている」場合などが典型的です.この場合については,今回記事の範疇を超えるので,むしろ前記事を参照して参考にしてみて頂くのがよろしいのではないかと存じます.(一応当記事もご参考までに.)
他方,この「中の人の本名」が「行政登録名」と異なっているような場合には,それなりに問題は生じますが,「別段/大して困らない」ケースも珍しくありません:要は単に「行政当局なんぞにはそう呼ばせておけばよい」という意識を採れば良い訳です.もっとも,これが(主観的に)出来るかどうか,は場合によるかと思いますが,筆者の場合は,行政機関相手には黙って行政登録名を述べ(書き),それ以外の相手には,その相手が信用に値するなら「本名はこれこれなので,行政登録名はこうだけど本名で呼んで下さい」みたいな事まで言います.ちなみに,学校特に教員は「公務員」なので,「本名」が行政登録名と異なる場合には,その事を伝えるのに信用に足る相手とはなかなか成り得ません.特に,そういう人(一般に公務員の多く)は「行政登録名以外に本名がある」という概念自体を知らない人(前記事も参照)が多いので,くれぐれも注意深く「本名を自分からバラすかどうか」については考えましょう.

 

それでは次に,他方で「そもそも『名前』ってどうやって付く(決まる)のか」という事について考えてみたいと思います.
「名前」という概念を使うのは,基本的に「他人」を個人(個体)毎に区別する必要が生じた場合です.もっと言うと,それは「自分以外の他人が存在する場合」であって,もし自分一人なら「一人称」を決めれば済む話です;その場合,「一人称」とは必ずしも「名前」のような形にはならなくても不思議では無いでしょう.

そして多くの場合,ある人の「名前」は,生誕の際に親などの近縁者によって「付けられ」ます.そうすると,周囲の人がみんなしてその「名前」で呼ぶ事になるので,当事者は自分の「名前」を「それ」だと認識して,ほどなく自分でも使うようになります(それがそのまま「一人称」になる事も少なくない);これが上述した「名前が行政登録名と一致する場合」であって,「中の人本体さんが外の人と一致している場合」という事になります.但し,一人称そのものは多くの言語において別途「一般に広く使われている一人称専用単語」(日本語「私」,英語「I」,ドイツ語「ich」,…)があるので,やがて教育水準が上がるにしたがって,他者に対して自分の事を指して言う場合にはそちらを多く使うようになります;この場合も述べた通り「他者が居る」という環境条件が大前提になっていて,ここで既に「一人称と自分の本名」が分かれる事になります.
そして,おそらく多くの言語圏においては,「自分の事を自分の名前で呼ぶ」のは幼稚である,と見做されていたりするので(例えば日本語圏はそうでしょう),話者は”やむなく”自分の「名前」を自分を指して使う機会は「他人が居る場合」に限り,自分自身に対して自分を指す言葉の選択・決定については別途それぞれ考える必要に迫られます;この段階で往々にして「その人の一人称」が決まる事となり,そして以前当サイトの記事で述べた通り(記事タイトル「自然言語に内在する性差別」),その人当事者の「社会的位置付け」をも決めていく事となります.

 

冒頭に挙げた「あだ名の付き方」も同様です:クラス替えや新入学・新入社のように「新しい社会環境」が生じた場合に,「その人をどう呼ぶか」が言わば「決まり直す」事になる訳です.ここで,行政登録名が使われる事もあれば,自己紹介等で提示された「従前のあだ名」がそのまま継続使用される事もあれば,また当人の立ち居振る舞い等から「新たなあだ名が付く」場合もあります.筆者などは,ここで公然と「本名はあくまでブリザムなので,特段の理由を持たない方はそのように呼ばれる事を強く推奨します」と,日本語圏にありがちな「とりあえず苗字で読んでおく」慣習を一撃で真っ二つに斬り落としてしまう訳ですが,大概は「自己紹介では行政登録名(上述の通り親などが付けた)を名乗り,そしてその環境における呼び名=あだ名は後から勝手に付けられる」という流れが往々にして発生します.そりゃ「今まで呼ばれていた名前」や「自分で自身の事を指すのに使っている名前」と異なったりすれば,当初違和感を抱くのも無理もない事でしょうし,またその「あだ名」に関して好きも嫌いも生じ得る事でしょう.ここで,そのあだ名が「むしろ気に入る」人も存在する訳ですから(いわゆる「社会環境リセットデビュー」),一律に「あだ名禁止」を要請した場合,その社会環境において”本名”が恐らく「行政登録名」に固定されてしまい,必ずしも当人にとって好ましい結果とはならない恐れがあります.

筆者が存じている一つの「良い方法」は,「呼ばれたい名前」を最初に指定する事です.この方法を採用している実例は少なくとも2つあって,一つはコーチングに関する機会,もう一つは特定の精神科(GID対応など)における機会です.これらに出会った時,筆者は「あぁ分かっている人はいるもんだなぁ」と思ったものでした.上述の通り,筆者は従前から「私はブリザムなのでブリザムと呼びなさい」と強硬に自己紹介を続けてきましたが,実態はそんな感じです;参考までに,本件に関して以下のツイートを紹介しておきます:

https://twitter.com/mameta227/status/1327020981068546049?s=20

>遠藤まめた @mameta227 23h
>一部のトランスにとってはバッドニュース。読みだけなら家裁に行かなくても役所ですぐにかえられるので、これまでは歩(あゆみ→あゆむ)などが簡単にできた。これからは漢字の変更と同じく家裁に行く必要がでてくる。

この例はかなり「せせこましいなぁ」と個人的には思うのですが,実態としてはことGID界隈において多用されている模様です.誠に御苦労様です(半泣).

 

という訳で,本稿の結論(提唱)です:
「あだ名禁止」を掲げるくらいなら,「呼ばれたい名前」を最初に自分で決めて公開する環境を整えましょう.そしてこれは当然ながら,当人の「中の人の本名」と必ずしも一致しない場合もあるでしょう(前回記事も参照).個人的には,この考え方は「基本的人権」の範疇だと思うのですが,「行政登録名=本名=中の人の名前」になっている人(前記事で言う”自明な人”)が多数派だったりする環境においては,その概念に思い至りすらしないのでしょうかね…??

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