日本の高校課程と数学と物理学と学位と教養と座学と体験,及びそれらに基づく「世界を認識する事」についての雑感

その昔,未だ「ライトノベル」という言葉が出来るより前(前世紀終盤頃〜)にラノベを数百冊ほど読んでいた事があるのですが,その中で(自分でも書いてみたりしておりました…★)結局「妄想世界を作るに際して,『それっぽい』整合性を保ちながらいかに大きな世界観を構成出来るか」と考えていくと,結局理論物理学という「現物」に辿り着く,という事を認識して,理物志望を始めた思い出があります(ちなみにこの論は,後に同期の物理専攻者と話して「見解の一致」を得ています).

そして,実際には結局数学へ進んだ訳ですが(理物の準備知識としての数学が必要と思って始めたらやり込み過ぎて,他のルートに行きようがなくなってしまった,という一面もありまして…苦笑),結果的に得られた知見として,「数学なら『この世の物理とは異なる宇宙』をも理詰めで作れる」という事が分かり,「両方やって良かった」と思いました.
それゆえ,後になって師匠・苫米地英人博士の成書に「先ず数学と物理は全員必修」と述べられていたのを読んだ際には,自身の体験をふまえて即「満額同意」と直観し,かつ「あぁやはり自分の考えは(少なくとも大局方向性としては)合っていたんだ」と,いわゆる「答え合わせ」が出来て嬉しく思ったものです.

先に拙Twitterアカウント@KazmiBlizzam上でも触れていましたが,斯様に「日本の高校課程の内容を全部マスターすれば,それだけでも相当な事が出来る」という事にはおよそ間違い無いと存じます(従前から持論として度々主張してきた通りですが).
但し一方では,こと現代の世界において,高校レベルを遥かに超える「リテラシー」の必要性を全方位的に考えていくと,やはりこれも師匠言の通り「結局,現代人の素養としては先ず博士程度の学修は必要」との結論に合流する感もまた必然的です.
筆者は幸いにして,旧教養部(1991年に当時文部省が「解体」を指示)が敢えて残されていた数少ない国内大学に進学しており,更に言えば,同期共がおよそ大学に入ってまで「点取り合戦」(大義名分としては一応「進路選択の優先順位を得る為」ですが,実際には恐らくまず以て「受験勉強の癖の延長という『現状維持』」に他ならないでしょう…現代の後輩達においてすら尚.)に明け暮れているさまを横目に,自分の進路志望(大学入学時点では既に「数学」と決めていました)とは一見特段関係の無い各分野の成書を,片っ端から渉猟していました.それこそ全盛期には,「月間20冊,年間200冊超え完読」(完読以外の一部読んだ本も含めればその倍くらい)を約8年間ほど続けていたと記憶しています.御蔭で,専門特化も度合としてはイマイチな人材に仕上がりましたが(※尤も「未だ世に出ていない独自の構想」も実は今なお複数持っています;更に,その一部は敢えて「実験」として別名義で成書を市販までしていたりもします…),他方では「ザ・教養」の水準としては,少なくとも然程頻繁に文句をつけられる事のない程度には届いておるものと自認しております.…尤も,あくまで「生涯学習」は世界の進展に伴って必要でしょうし,また何せ座学を多くやってきたので「次は体感」という向きはまだまだ尽きないですけれども.

 

斯くも「この世に在る事」とは先ず「世界を認識する事」なのかなぁ,と今にして思います.私感としてはまだまだ「一里塚」すら見えていないという向きもありますけれども(しかし,コーチング理論の原則からすれば「ゴールを達成したら死んでしまう」ので,当該一里塚が見えたら即二里塚を求める事になりますが!),そろそろ一度は「世界が観えてきた」感覚を持ってみたくなります;そして無論,その瞬間に「次の一歩」を踏み出して「不安を感じる」事を目指す訳です(成書「オーセンティック・コーチング」参照.…なお,いわゆる「ダニング・クルーガー効果」にも注意).実は直近,別途の某〆切が気になって不安を感じておるのですが(それは意味が違う!!笑),他方ではまた偶然の幸いにして,私自身が今までやってこなかった「ほとんど全くの異分野」において,活動の中枢の一角を担う役割を頂いていたりもします(現時点では具体的内容は未公開).正直,不安云々以前に「そもそも自分に一体何が務まるのか」としか未だ思わない有様なのですが,ここで何がしかやったら,それこそ「バランスホイールの本数が増える」世界が見える事と思料されるので,その意味では大変楽しみでもあります.

 

非常にざっくり言えば,筆者は先ず約20年間を「ゲーマー」として進んできて,また約20年間(実際は今年で「職務」としては25年目となります)を「教育」につぎ込んできました.そうすると,これから先もおおよそ20年間毎に新たな分野に人生を使っていくとするなら,例えば生涯120年と思うと,6分野くらいは「相応の達成」に至る事が出来る皮算用になります.
更に,脳・神経系統以外を「フルサイボーグ」に換えられるなら,現在の科学知見においては「おおよそ200年程度までは生きられる」とされている訳ですから,それこそ“Google(「データベース+計算マシーン」)に魂を売り渡して生涯を閉じる”までには,10個くらいは何がしかを「成す」事になるはずです.

日本で現在大学学部生相当程度の人たちは,サイボーグになるまでもなく22世紀を見る事になる可能性が高いでしょう.私もせめてその頃くらいまでは世界を見たいと思っています.
22世紀になって,「教育」はどうなっているのか,直近着手を始めた新分野(上述)とは何として位置付けられるのか,あるいは今抱えている「独自の構想(妄想)」(※複数あります)は果たしてどのような進展を遂げていくのか.野望は尽きる事がありません.
もしかすると,読者諸氏には一見「強欲」と感じられるかもしれませんが,そもそも生命は「生きる事」に対してはおよそ全面的に強欲なものです.そうしますと,我々はわざわざ無理に欲望を煽らなくとも,勝手に強欲が湧き続けてきます.そして,その「自分の強欲」が世界を覆い尽くしたとき,そこから「自我」を引っこ抜いてみると,初めて本当の意味で「世界の姿」が観えてくるはずです.皆さんももしよろしければ,22世紀の世界を観る際にご一緒しませんか.

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